それは意味なく、くだらなくて、長い長ーいお話。

喉がチクチクする。というか、咳き込む。ある乳酸飲料を飲んだ後、暫くしてから喉の周りに何だがねっとりした物がついてしまうせいなのだろうか。お茶を飲んだりしても暫く喉の周りが何とも言えない感じになる。ああ、そう言えば先日夜中に咳き込んだのも、寝る前近くに飲んだからかもと思い出している。じゃあ、飲まなきゃいいのにと思うのだが、なぜかまた買ってしまった。うーん、菌類のなせる業だな。菌類に操作されている感あり。まぁ、暫くの間はこうやって暮らしてみよう。

さて、ここのところ、文章を書いている。けれど、何ともしまりのない感じで、ダラダラ書いていて、なぜ書いているのか?伝えたいことが取り立ててある訳でもないだろうにと思う。日記だからということで、大したことも無い日常を綴り、何の役に立つのかとも思うのだが、人とは不思議なもので、昔から誰に宛てる訳でもなく日記という物を書いて残して暮らしてしまう。文章それ自体は書く本人が自分のために書いていると思うのだが、日記という物を他人は覗き見したい欲望があったりして、結局は結構な数の書籍となって残り、後世の人にも伝わって行く。他人が考えていること、感じていることを知り、読み手は何を思うのだろう。

人というものの習性なのだろうな。興味が湧き、知りたいという欲求。自分も他人の文章を読む。人は自分が大勢の人と同じようになっているかどうか、確認するようなところがあるらしく、違っているかどうなのか気になる生き物なのだな。知って安心して、違う方へ行く人もいるだろうし、同じようになるよう近づこうとするとする人もいるだろう。行動の選択肢は個人が持っているけれど、社会の中で生きている限りは知ろうという行為そのものは無くならないのだろうねぇ。

自分は人の考えていることに「うっ」となった時期がある。特に文章を読むのが辛かった時期がある。目の前にいる人なら、大丈夫だったのだが。人は目の前にいたって、話をしたり感情をこちらから読み取ったりしなければ、その人の考えから適度な距離を取ることが出来るけれど、文章というのは意外とあからさまだったり、どう見せようかと工夫されているものがほとんどで、その意図まで読み取れなくても、読めば読むほどに自分から能動的に受け取って自分の中に知らず知らずに落とし込んでしまい、他人が普段見せていないような考えが押し出されて来たものを拒めなくなる。要らんと思っても、自分から読んでしまっているのだから仕方が無い。そしてオエェ・・・という感じになる。まぁ、その後は自分から他人の文章を極力断つという感じで過ごしていたんだけれども。最近は読むことも復活しているねぇ。

文章を読むというのは、自分からの行為である。本当に能動的な行為。垂れ流しの音や映像を受け取るようなものではないな。だから自分で敢えて、好き好んでやっているのだから、選ぼうと思うのだが選べていない。ブログなんかは他人との距離感がバグっているなぁと思う。腹の深いところに近いものが多い。だから読まない方がいいと思うこともある。けれど、読んでみないことにはオエェとなるかどうかわからないものでもある。一か八かである。

読み終わって「ああ、失敗した!」と声を上げている人が何人もいるだろう。自分のブログは文章が最近長い。削らず、そのまま掲載している。思っていることの垂れ流しだ。読んでいる時間を費やして、失敗した、時間の無駄だったということが多いかもしれない。けれど、そういうものを他人が書いた日記と呼ぶ。暮らしに役立つかどうかはわからない。人生の中で単に「他人って毎日下らなくて変なことをたくさん考えて生きてんだなぁ。」ということを知って、安心する程度のものであったらいいなと思う。

愚かで、失敗を繰り返して、日々生きているんだ。それでも生きていけるもんなのだ。清く正しく美しく、強くて素敵にキラキラして生きている人ばかりではないということを知ってもらえれば幸いです、なんて。

では今日はこのへんで。