ちょっと慎重に安静にしてたら体への伝達が難しくて。ええ、今「ヒト」としてスタートラインに立ち始めたところです。

足の調子が感覚的に良くなって来たのと手当てしているガーゼに出血が無くなって来たこともあって、足を動かすことを試みている。動かさないでいると足先が冷え、全体的にむくんでしまい、パンパンになって動けなくなってしまうという夜が続いた。こんなにも「動かさない」ことが体には悪いのだなと思った。足首を回したり、つま先の上げ下げをするだけでもかなり状態が変わるけれど、中から動かさないと結局は効果があまりないようで、今朝から暫くやっていなかった動きをいくつか試している。

階段の上り下りや両足に均等に体重をかけることは少しずつ出来ている。ピアノのペダルを試しに踏んでみたのだが、感覚が乏しい。深く踏めないことに気が付く。左足でペダルを踏んでいる感覚とは全然違っていて、重さを足の筋力の力でかけられない。細かい足先の動きは出来ても、深く大きな動きがどうも出来ないようだ。ほんの数日だったのに、これほどまで神経の繋がりが鈍くなってしまうのだなぁ。

動かさないことや自ら動こうとしないことがどれだけ体の機能を失っていくことに加担しているのだろうか。年齢を重ねてしまったら、さらに体を動かせる感覚すら忘れてしまうのだろう。高齢者が病院生活であっという間に老化が進むのが噓ではないなと感じた。

ずっと元気でいたいなら、その元気を毎日やり続けていることが大事なのだろう。元気をやり続ける、という変な言葉を書いてしまったが、元気でいたかったら元気で今を過ごすしかない。元気に活動的に動き回って過ごしたいなら、今動いていないと動かないだろう。動いている高齢者を見ていて、元気でいいなぁと思うだけで、ずっと座った姿勢や寝ころんだままスマホを見て過ごしていないだろうか?今、同じように歩いたり動いたりしていない限り、この先歩いたり動いたりは出来ないのだろう。

適度に続けることが感覚を失わずにいられる方法だろうなと思う。ずっと座る生活からいきなり10年経った頃に「さぁ、走るか。」と言っても、もう体は走ることが何であるか、どう動くことなのか、きっと忘れている。自分は、たった5日程度の行動を狭めた体の使い方をしただけで、普通の歩き方を忘れているし、どこに力を入れて抜いているのか、わからなくなっているのだから。

そして、今回のピアノのペダル問題。左足の踏み込みの方が有効だ。回復を狙って、右足を使って少しずつ踏み込む練習を今からするか、それともこの際だから左足で踏むペダルを習得しておこうか・・・?細かいことを考えるより、足がもっと動くように、今日はひとまず外に出て歩いてみようと思う。高齢者のスロープでの歩行訓練のように、家の周りは坂道が続く。階段より緩やかな坂道を歩く方が本当に実感として楽なのだろうか?そういう体験もしてみようと思う。

昨日のブログについてひとこと。書いた文はほとんど愚痴のようなものだ。愚痴のようなものを書くと、不快に思われた人が多いかもなと思っている。でも、不快もアリだなと思う。だから書く。自分の考えていることと他人が考えていること、どちらも個人の人生の中心にあるもので「そうだそうだ」と思う人もいるし、「そうではないだろう」と思う人もいる。「へ~、こんなふうに思うんだ」と思う人もいるだろう。快や不快だけでなく、全く無意味で刺激にもならず、スルーする場合もある。いろんなことをふと思い、書くだけで、何かしら影響を与えていたり与えられているものなのだなと思う。

こうやって文章を自分のために書いていて思うのは、今日の自分は昨日の自分とは別の人間のようなものだなということ。他人が書く文章を読んだり他人の考えに触れたとき、同意や反対意見を持つけれど、自分自身の文章に対しても日が経てば意見が変わり、どうしてそう思ったのだろうかとか、なぜかまた読みたくなったり、反対になぜか読み返したくないと思う日もある。引っかかり続けるのはどうしてなのだ?等、自問自答してみたりしている。さらに刺激を受けることも、受けないことも、ある。なぜ自分はそこに興味や関心があるのだろうか。ではなぜ、スルーしたものに無関心でいられるのだろうか。ずっと疑問が転がっていて興味が広がっているなぁと思う。だから飽きないねぇ。また書こう。

では今日はこのへんで。