読み手も書き手も両方、様変わりしている。人の移ろいは早いものだな。昨年の日記を読んでみた。自分が文章を書くということそのものについて、考えていたのだろうなぁ。今は、どうだろうか?書く日が減っていて、書くことよりも考えることよりも、どこか頭を空っぽにしたいと思う日が増えている。まぁ、生きている限りそんなことを続けることは難しいのだろうけれどネ。
頭の中に生まれて外へポンと出て来る言葉の数は減ってしまったとしても、そのときの思いや感情に近いものを当てはめてみて、いつしかどこかへ放出して行くのは間違いないなと思う。それが言葉じゃなくて音楽だったり、ダンスだったり、人によってピッタリ来る表現の形や方法は違うのだろうけれど、自分の中に留めていられないのが人間なんだろうなぁ。だって、無人島で長く一人ぼっちで孤独になったって、この思いは何だろうとか、何かしらを発してしまうようだし。
怒り等の負の感情でさえも、世を生きる人にとって、その発し方が何であるかはとても大切だ。最近のニュースに上がっている事件を見ていて思う。事件を起こす人は、最終的に他人や自分自身を傷つける方法しか見つからなかったのかもなぁと正直哀れに感じる。その方法しかなかったのだろうか?えっ、選択肢がひとつだけ?・・・きっと、他には何も思いつかなかったのだろうね。残念だ。
その反対に、事件を起こすときに、いくらでももっともらしい理由がたくさんあるようだ。だが、どれだけ多くの人が納得しそうな理由がいくつもあったとしても、起こした事象が事件だと考えられたものの範疇であったとしたら、それは犯罪と決定づけられてしまい、他人と自分を傷つける結果を自主的に選択したことになる。そこに至るまでの境遇等に「大変だったのだね」と理解や同情が出来ることがあっても、最終的に選択した物事は本人の意思であると思うから、結果に対しては到底納得出来ない自分がいる。
罪を犯した本人の自供でその理由が整然と語られることを最近はニュースの中で目にしたりするが、その姿に「明確な理由があれば罪を犯しても良いのだ」というような感じがしてしまう。明確な理由を打ち出して意思を持って事件を起こす、その感覚なのだとしたら空恐ろしい。どこかから借りて来た大衆的な正義みたいなものを利用して事件を起こしているのか?だとしたらものすごく短絡的で安易だ。事件を起こした人が明確に理由を語れば語るほどに、ただ罪を犯したかったように見えて来る。怖いなぁ。まぁ、いつものように勝手に想像しているだけなのだが。
罪を犯さない人というのは、どんなにたくさんの理由があっても、最終的に罪になる事象を選択しないんだよネ。最後で最悪の選択をしなくて済むように、他の選択肢をずっと必死に探し続けているのだろうと思う。たぶん、世の中が平和になることとか、自分が楽しくなって穏やかに健やかに暮らせるとか、他人にも悪くなさそうな選択をたくさん探し続けることを諦めたりしてないのだ。
自分にとって適した何らかの表現の方法をいくつも選び、増やして、自分にとってピッタリな表現方法を常に見つけ続けて行く。そう、これって駄目になっても、次々と探し続けるものなのである。「最後にひとつしかない」と思わないで、まずは見回そう。試そう。最上級なひとつの良い選択が見つからなくても、悪くない程度をたくさんで。自分も今のところ、ヘボい文章を書くとかは表現のひとつ。振り返って見ると、たくさんたまっているなぁ。
では今日はこのへんで。