目が合ってコンニチハ!って言うためにも、前を向いて視界が広い方がいいのだ。足下ばかり見ていないのがいいよ。

足が完全に回復したとは言い難いが、階段はゆっくりなら手すり無しで下りられるようになったし、ピアノのペダルもステージにあるようなスタインウェイならば踏みこむことが出来ている。昨日、今日とピアノ発表会のリハーサルとレッスンに出かけていたのだが、日一日と目覚める度に動ける範囲が確実に変わり、視界もかなり広くなったと思える足で臨む。ピアノを弾くのは指先でありながら、足先も使うし、椅子に座っている体全体を使うことになるのだ。どちらかと言えば指先より、足をどう動かせるかが心配だった。普段なら使わない、余分な力をもしかしたらたくさん使っていたかもしれない。何とか20分のリハーサル時間一杯使って、弾き終えた。先生からも手術後だとは気が付かれない程度に弾けたようである。レッスンでも問題ないと言われた。何とかこのまま発表会へ出られそうだ。

あれほど怖かった、道路で横を通る猛スピードの車や人が、今ではそれほど気にならなくなった。それだけ回復して、咄嗟の適応力が上がり、動く自信が体の反応として出ているということだろう。昨日まではまだ信号が渡り切れるか心配だったが、今日は渡れるスピードで歩けている。さすがにいつもバスを追いかけて走っている下りの坂道はゆっくり踏みしめながら下りたが、平らな数メートルは少し駆け足で動くことも出来た。本当に回復とはありがたいものである。

夕方買い物へ一人で出かけてみた。スーパーに行くのに多少の時間はかかるが、ちゃんと自分の足で向かうことが出来る。荷物もそれなりに持てる。重さも足に負担がかかっていたけれど、今では足にそれらの負荷をかけるのが怖くない。むしろ、筋力が落ちてしまった部分や総合的な繋がりの動きの鈍さをゆっくり感じながら、それでも動かしていくことが必要だろうと思う。少しずつ動ける体の部位を使って行こうと思う。

歩くために必要なことは、こわばりで固まった筋肉を意識して伸ばすことだと感じている。階段をゆっくり下りているときに、何が一番大変だったかと言うと、自分で意識して筋肉を緩めることが難しかったのだ。反対側の足が動くときに、その反対の足が本当なら一度緩んで次の階段へ足を伸ばして行かないと上手く着地も出来ないし、それ以前に階段から下りるという動作に繋がらなかったのだ。緩めて、伸ばしながら力が入ること。考えもせずにやっているなんて、人間の体は本当に面白く出来ている。緩んだり、重さを支えながら伸ばしたり、固まっているようでいながら部分的に柔らかいのだ。複雑な動きをしているのを身をもって感じた。

今回動けるようになったからこそ、やはり「動けない身」であるときのいろんな怖さを感じたなぁ。ひとまず大きな災害に遭わず、手術後に家で養生している間も、家族がたまたまそばにいたこともあって、いろいろ助けてもらい、不便なこともほとんどなかったのだが。今後、いつもこうではないはずだ。基本的に一人暮らしだ。これから先、どんなに元気で動けていたとしても、いつかは弱るのが人間である。でも今はまだ回復することの出来る年齢で、動くことがまだ暫く数年は出来るであろうことがとてもありがたいなと思う。

急に突然、思ってもみないときに動けなくなることだってあるのだ。これからの人生で自分が「死なない」ことはあり得ないし、急に弱って今までよりも行動範囲が狭くなることは必ずどこかのタイミングでいつかは来るはずだ。年を取って病院のベッドで寝ている姿を想像してみても、このどこも痛くない体の感覚と意識のはっきりしているこのアタマがあるような気持ちで想像していないだろうか?絶対にそんなふうではないはずだ。今までに体験したことのない感覚を、そこで味わうことになるのが人生なのだろうと思う。今は想像すら出来ないものなのだ。だからこそ、今出来ることを喜んで楽しむ。今を楽しめと、自分は足のこの小さな傷口に教えてもらったのだな。動けるなら、どんどん動いて行こうと思う。

書こうと思っていたこととは違うことを書いてしまったなぁ。まぁ、いいか。何事も受け取るにも感性が必要だ、ってなことを書こうと思っていた。ちょっとは書いていたような気もする。

では今日はこのへんで。