ずっと続く痛みではないからこそ、その痛みを目印に回復を感じながら過ごす。

昨日、足に出来た腫瘍の手術をした。お正月早々の手術。暫く足が思うように動かせないが、自分で選んだことである。とにかく負荷をかけずに過ごせと言われる。立っている時間を減らし、出来ることならば横になっているのが理想だ。ケーキ屋の手伝いについては、店主に話をしてあり、無理そうならば連絡することになっている。自分の感覚では「動いても大丈夫だよ」と言われてる状態なら多少痛くても動いてしまうのだけれど、キズが開いてしまうこともあるからとにかく安静にして欲しいとドクターから言われると動くのをためらう。

手術後の感覚としては麻酔が切れたのが遅く、夜中まで感覚が鈍かったせいもあってある意味ピンピンしていたのだが、今朝になって皮膚の突っ張り感があって、体重をかける歩き方を避けている。痛みが特に大きくあるわけではないのだが、あまり痛みがないこと自体が自分にとって良くない。すぐに手術の痕があることを忘れてしまうのだ。ほんの少しの痛みがあるからこそ、足を気遣い、考えて行動することになるのだ。痛みを取り除いてしまったら「平気」と思って今すぐに普段通りの生活をしてしまうだろう。痛みが無いと危険極まりない。適度にちょうど良く動けるようになるまでこのまま過ごす予定だ。痛みはありがたいものなのだ。

強い痛み止めやその薬を飲むための胃薬まで処方されそうだったので、胃薬を断り、痛み止めも普段飲んでいる物にしてもらって、抗生薬も指定の物にしておいた。病院ではなんと多くの薬を次から次へと出すのだろう。苦痛を和らげるのではなく、苦痛をすべて避けることが中心のような感じだ。薬が持っているデメリットを他の薬で補うことを主としているよなぁ。

処方してもらった痛み止めは、喘息患者には合わない人がいるらしいが、自分は今まで飲んでいて胃も荒れないし発作が起きたこともない。逆に大丈夫だと言われる痛み止めは自分はめまいでフラフラ、酩酊状態のようになり大変だった。合う、合わないはあるんだよな。

飲んだことがある薬については人任せにしないで、自分のそのときの状況に合わせて選ぶことも出来る。しっかりドクターと話をして、言われるがままではなく、希望を出した上で話をして自分の納得出来る方がいい。どんな薬でも、手術でも、正解が人によって違うはずなのだ。自分の体のことなのだから、意見をしっかり伝えないとな。

今回、手術について、痕が思ったよりも大きく残るという説明を受けた。ネットで見ていたときよりも、かなり大きな傷となる。縫っているときに「何針も縫っているな」とは思ったけれど、これほど大きく切り開くことになるとは思ってもみなかった。良性だと言われていたけれど、どうしても疑いが残っていたので、切り取って何だか正直ほっとした。

病理検査に出す自分の腫瘍を見せてもらって、意外に大きく見えた。今は手術の糸が異物のはずだが、腫瘍があったことの方が異物感が強かったことを考えると、明確に異物だったのだろうと思う。ひとまず取り除いて、納得感がある。自分の気持ちだけの問題?だからこそ、大事な選択だと思う。傷が残ろうと、少々長くシャワー生活が続こうと、行動制限がかかろうと、自分の選んだ選択でほっとする気持ちが違うのだから。

暫く動かないことに努める。思っていたよりも傷も大きいこともあり、ケーキ屋の店主にも勤務相談連絡を入れる。そこで、昨日家族に送ったはずのメールを店主に送っていたことに今気が付く。間違いとも取れるが単純に報告のようなメール内容で、先程訂正をしながら店主に送り、自分で笑える。

こんな感じで今年はいろいろ早めに動き、少々せっかちなのだ。お参りのときもそう言えば、家族に任せると言っていたはずの鐘を鳴らす動作も、自分では「なんで鳴らさない?」と待ち切れずに鳴らしていた。年の初めから自分が思っているよりもパパパーっと動いているのだ。思うことも早いが行動を躊躇なくしている感じだ。

まぁ、こういうこともきっとこれからあるのだろうなぁ。しかも恥ずかしいなとかダメだなと思わないで、イラついたりもしないでいられる。ちょっとした失敗を笑い飛ばして暮らしていて、何だか面白くなって来たぞと思う。順調とか成功ばかりで彩られた人生より、いろいろが可笑しく笑えるのも結構幸せな人生だな。

さて、これから何をしよう。ピアノのペダルが踏めない。本でも読むかな。何かが出来ないときは、その他の何かが存分に楽しむことが出来るときだ。では今日はこのへんで。