坂道を歩いて、まず最初にパン屋に行った。自分の家の近くに小さな商店街があることがどれだけ生活を助けるのか、身をもって知ることとなる。今は確かにネット注文も出来る。けれど、ほんの少しコレが欲しいとか、散歩がてらちょっとそこまで行こうと思うきっかけになり、動くことが増えて健康寿命も延びそうだ。体に障りがあるようになっても、ほんの少しの力で試しに外に出てもいいかなと思える。住宅街にちょこちょこ存在する個人店の集まった商店街。シャッター街になりつつあるけれど、今後も持ちつ持たれつの仲で存在出来ればいいなぁ。
歩いて行くと、当然だがすべてが「坂」である。自分のために都合の良い道に突然なるわけではないよな。足の感覚が鈍いにもかかわらず、微妙に凹凸が道路にあることを察知する。ほんの少しの上り下りも、滑りやすそうな表面となだらかで歩きやすそうなところを無意識に感じ取ってしまう。普段はなんと大雑把な感覚で何も気にしないで道を歩けるのだろう。
曲がり角では急に歩いて来る人や車に対して、すぐに反応して動けない自分がいることを考えると、必死に動いて急ぐか、相手に待ってもらって、ゆっくり自分のペースで時間をかけて動くかを迫られることになる。人に迷惑がかからないように歩くためには、曲がり角でも道のどちら側に沿って歩いていると急ぐ必要なくマイペースで歩けるかとか、お互いに感知しやすい見通しの良い立ち位置はどこだろうとか、足が疲れるから少し休む場所に最短で行けるところは?等考えながら進むこととなった。すぐに対応出来るのが当然の体のときは、今感じているようなことなど微塵も考えていなかったなぁ。
今の状態のように「ただ歩くこと」というのが難しいとき、どんな道を選んで行くかは重要である。往来が激しいところや、子どもがボール遊びをしているような「ボールに当たる」「ふいにぶつかる」ところは極力避けてプランを考えていた。それでも、急遽工事をしているところや気にもしていなかった段差、急いで通る車や自転車には遭遇する。人も車も自分の歩いている場所から少し離れているのに、スピードを出されているだけで危なっかしいなぁと感じる。通せんぼするみたいに留まっているモノや住宅からほんの少し出ている突起物(ポストや植物)等それらを迂回するときの手間としんどさもあったが、ほんの少しのことなのだけれど、高齢だったり体の動きが不自由なところがある人が、どれだけ周りに気を遣いながら生活しているのかと知ることとなった。
パン屋に着いた。なぜこんな短い段差に手すりを設けたのだろう?と思っていたが、2、3段位のところなのだが、「安心して」その段差を上るのには必要だ。実際に使ってみて、こんなに違うのかと思った。そう、安心して動けるかどうかなのだ。今回は滞在している家族が一緒に歩いて来たので困ったときには助けになる。苦はなかった。その段差の先にある店のドアを引いて開けていてもらう。風が吹きつけていると、開けるにも閉めるにも力が必要。自分がもし杖を突いて一人で歩いて来たのなら、強風が吹くような場所で体を支えられないし、重いドアがさらに開けられないことを想像した。
普段人が通るときドアを開けて支えていた自分は、ただ習慣で無意識にやっていたことだったが、そのとき受け取っていた「ありがとう」という言葉は、今になってさらに自分の中に深く染み渡る。自分は些細なことだと思っていたが、その人にとってはとても大きな行動だったのだな。ああ、ホントに自分は人を助けていたのかと、今になって実感した。
やはり体験しないとわからないことが多いのだ。でも、頭でっかちでもいいから、知らないよりは誰かが困ってしまう事象を学んでおくことや、そのための行動が出来る間は、やれることをしておくのが良いなぁと改めて思う。見慣れたはずの通い慣れた道であっても、足元を凝視して歩いていた自分に気が付いたことは大きい。どれだけ実際に視野が狭くなって行くのだろうなぁ。
頭の中は順路を考えたり、足を動かすことに集中し、視界は目の前の足元前方1mがいいところである。足元を長い時間見ているので姿勢はきっと悪くなる。頭の中は忙しく働き、近くを歩いている家族との会話が精一杯である。その周りの音も風が強ければ聞こえにくいし、自分の周りのみ集中していることによって、さらにその先の周りの状況を感知出来ないのだ。何だかんだ意識を向けにくくて、世界がものすごく狭いまま過ごしてしまった。
高齢の方をかなり遠くで呼んでから、段々近づいて声をかけつつ、やっと目の前でも呼んで話しかけることをしないと驚いてしまう…というのを思い出していた。たぶん集中力は自分の身の周りだけになり、範囲がどんどん狭まって行き、最後には自分自身が必死に動いて行くことのみに集中して行くのだろうなぁ。人は生まれると自分より広い世界へ意識が向かって行動して行き、やがて行動が小さくなって意識が自分の方へ向かって行くのかもしれない。なんか面白い変化だなぁ。
あと数日、回復して行く足と付き合いながら何を感じ取ることが出来るだろう。昨日はパン屋に行けたこともあって、その後合唱の練習へも行って来た。5分ちょっとの練習場所へ20分くらいかけて歩いて行ったが、少しずつ一人で歩いて行ける自信をつけているところ。自分は何と言ってもまだ若いし、これから回復する身だ。暫らくは歩いたり走ったり、存分に楽しむことが出来ると思うし、リハビリも「治って良くなる」ことに向けて努力も出来るだろう。回復をしようと試みる高齢の方の姿を近所で見かける度に、あの生きる力はどこから生まれているのかと思っていたが、今までより良くなるはずは無いと思われる身であっても、回復に向けてただ毎日動く。きっとそれが生きるってことなのかもなぁと最近思う。今日はケーキ屋まで行くかな。
では今日はこのへんで。