自分の需要が有るか無いかなど、自分で決めない方が良いのだろうなと思う。自分のことなど、いつまで経ってもすべてが分かるわけでもないし、自分以外の人が自分をどう思うかなど分かりっこないのだ。簡単にいつでも、自分も分かった気にはなってしまうのだが。狭い世界で生きていたなら、広い世界を見渡せば、何となく自分の需要もどこかにあるだろうと思えるくらいにはなる。
先日、知り合いが出したCDを引っ張り出して来て、聞いていた。多くの人の目に触れたことがある人。ちょうどCDを出した頃聞いていたときにはわからなかった世界観が今ならわかるなと腑に落ちた。あの頃は自分が若過ぎたのと、身近な人の内面を見た感じがしていたせいか、きっと気恥ずかしくて仕方がなかったのだろう。それと共に自分の中で何かがずっとモヤモヤしていた。今になって、そのモヤモヤが晴れた。結局、自分の表現をしている人と、いつまで経ってもそうやろうとしない自分がいたのだ。その差を感じていたのだと思う。結果がどうであれ、人生をかけて表現をし始めて、踏み出す一歩に努力していた人。すごいなぁと正直今なら思う。若いときにそうしなかった自分がいたことを今になって認められるようになって、やっと素直にすごいなと思えるようになったのだ。自分自身が試されるのは常に怖かったのだろうと思う。今なら「ああ、ダメだな自分。」と思えるのだが、ダメな自分を認めて行けるような強さはあの頃なかったなぁ。今強さが小さな欠片くらいはありそうだ。
路上ライブをずっとやって、あるときライブハウスでライブをやることになったとき、まだお客は数名だった。それでも熱唱していた歌声を今でも覚えている。始まりは本当に一握りのファン、それも身内のような集まりから始まったんだよなぁ。それを経て、続けることによって長い年月が経ち、今に繋がっているのだろう。止めてしまえば、そこで終わる。今もただひたすらに音楽と自分の世界を披露し続けているのだ。自分の好きな世界を最初から誰もが好きになるかなんてわからないじゃないか。その世界を「好きなのだ」と勇気を出して声にして形にして行ったことで、やっとどこかの誰か見知らぬ人が聞き、「こちらも好きだよ~」と応答し始めてくれたのだ。それまで自分のこの「好き」の需要なんてあるかどうかわからないのに、広く声を届け続けたことで到達した世界だろう。ちょっとやそっとじゃ、わからない。多くの人の目に触れたって、それを気に入ってくれる人が多いかどうかもわからないものである。少なくて、少なくて実際には届かないこともある。どんな人がこの世に今生まれて生きているか全部の把握など出来ないのだから、ただ堂々と声を上げてみるしかないのだよなぁ。
まぁ、そんなことをCDを聞きながら思い、自分は今はどうだろうかと思う。見回している。自分の世界の需要はどうだろう。自分が毎日書けば、こんなブログでも数人読む人がいる。発表したピアノ演奏動画を何度も聴いてくれている人がいる。ただ歩いているだけで知らない誰かに話しかけられる。変?かもしれないな。自分がこれからどんな需要があるかわからない。きっと生きているだけで、自分から発している何かしらをほんの少し他の誰かが受け止めているのを感じるのだ。
今日はこれから高齢者の食事会の前日準備。殆ど周りの人がやっているようなもので、自分はただの賑やかしである。それでも嬉しそうに「ありがとう」の言葉を聞くのだ。では今日はこのへんで。