久しぶりにPCに向かう。手伝いに行っていたケーキ屋のクリスマスケーキ販売がひとまず終わり、年末に向けて家の事について動くこととなる。これから家のツリーをしまい、大掃除を合間にやるかなぁ。今日はボランティアの会議の後、高齢者向け食事会を開催している仲間数人での反省会に参加して来た。反省会という名の忘年会のようなもの。今年の問題点と今後の運営について話をした後には、食事をしながら気ままな数時間を過ごした。
あと少なくとも一年ほど、このメンバーでやって行くのだなぁ。あまり問題なく今までやって来られたのは良かったと思う。基本的に周りに流されず自分自身の意見を臆せず言える人たちばかりなので、裏表が少なく、余計な気遣いが必要ない。お互いに気楽な人たちばかりだった。ぶつかることもあっても、自分の意見を治めることも出来て、人当たりも良くてバランスがいい人たち。気にかかった人に対して世話好きな面もあり、責任感も強く、人と過ごすのが好きで楽しいことが好きな印象。こんな人たちと一緒に過ごせた数年はとても貴重だなと思う。
自分も、どのタイミングでこのボランティアから退くか考え中ではあるが、結局活動を続けるというのは内容も魅力であることも当然だが、「何をやるか」より「誰とやるか」は大事なのだなと思う。誰と過ごすか、どんなふうに過ごせるか。いい人なのかではなくて、自分にとっていい人になるかどうか。そして相手にとっても自分がいい人になれるかどうかだ。誰にとってもいい人というのは実際に一定数いるのかもしれないが、いたとしてもその人が自分と合うかなど、わからない。そんなものは探せないし、ぴったりはまることなどあるわけないだろう。
そこに集まった人とお互いに歩み寄れて、お互いにそこそこ気分良く物事が進められるような関係を作れるかどうかなのだ。自分の気が付かないところで相手が努力をして気遣ってくれたことで気分良く過ごせた部分は多分にあるとは思うのだが、それなりに自分もいい関係を保つ努力が出来ていたはずである。意識的に拒絶せず、心地いい雰囲気作りに努めてこその、この関係だと思う。
と言うのも、生きているといろんな人と同じ関係で生きているわけではないなと思うからだ。親とはやはりうまく行かない部分が多い。腹を立てることが多いし、許せる部分が異なる。仲の良い友人というのも、それぞれいろんな距離感で過ごしている。同じものなどないよなぁ。
まぁ、必死になって、精神的に身を削って人に合わせてナントカやって来たのだ、なんてそこまでは思わない。それなりに「お互いに」「程良い距離感」を「適度に」「保って過ごす」よう「努めて」来たのだろうと思う。そんな自分をよくやった!と褒めたい。何も相手任せではなかったはずだ。自分もほんの少しわかる範囲で努力しただけだが、それなしではありえないのだ。
自分も心地良く、相手も心地良く過ごせたら、そこは居心地の良い世界の出来上がりだ。ほんの少しの空間と時間を程良く作り上げることが出来たなら、今ある世界を良くしたことになる。言い方は子どもみたいだが、小さな世界平和に貢献したゾ。えらい!
さて、これから今朝から停戦状態の親と連絡を取り、話をしなくては。またお金が無いと言っている。一か月分のお金を渡したのはつい10日前だったような。いい関係作りをと試みても親とは難しいなと思ってしまう。でも、金銭感覚の違いは結局価値観の相違なのだ。お金がないところに増やすことは出来ないし、今後の遣い方を改めるのは親自身である。無くなるまで遣うかどうかの決定権は親自身なので、自分ではない。
これって、親にお金が無くなると迷惑をかけられそうというだけのことである。予想をして未来を考えると腹は立ってしまうのだが、実は自分に怒る権利もきっと無い。今直接何かの迷惑をかけられているわけでもない(電話が度々鳴るのは迷惑なのだが)。ほんの少し先の未来に金銭に困るときは親自身に困ってもらおうと思う。困るのは私ではないのだ。
…なんてことを書いていたら、自分がどこかで親の負債を背負わなくてはならないかもなと、勝手に気負っているところがあることに気が付いた。親子関係とはどこか自分のことのように考えてしまいやすくて恐ろしいな。無駄に自分の機嫌を損ねそうだった。気をつけよう。
では今日はこのへんで。