最高の恋人にしてしまえ。鏡に映る自分自身をだ。自己肯定感が低くても、鏡の向こうの自分を他人と捉えて、客観的にいじくって行ったら、少しはマシな人間の姿になるだろう。まぁ、実際のところ、そうやって客観的に見るというのはとても難しい。嫌でも自分の姿をどこかで言い訳をして見て見ぬふりをするものだ。
けれど、つい先日のごっこ遊びの続きのように、ふざけていろいろやってみるのも面白い。演劇で俳優が違う人に成りきるということがあるけれど、それと同じように成りきって遊んでみると、自分の意外な姿を発見する。自分のことが嫌でたまらない人は、もう鏡の向こうの自分のことは知らない人間だと思って、どんどん素敵に思う姿に改造したらいいと思う。どっちみち、反対方向に映って見えるものだから、元々似て非なるものだ。自分自身のことが嫌いなら、嫌いなところや見たくないところをどうせなら率直に書き出して列挙するのは簡単だ。
なぜこんなことを書いているかというと、遊び回っていたツケが目に映っているからだ。日に焼けたり、食べ過ぎで太ったり、運動不足で少し体がたるんだり、寝不足でうつらうつらしてばかりいて、今まで続けてやっていたことが全部中途半端になっている。何もやれていない自分がいるな~。げげげっ。連休中に遊び回っている自分の反対側で、しっかりと何かをやっている人がいる。休みだ!と思って多くの遊び呆けている人と同じことをしてお金を遣って発散しているだけの人は、実は散財しているだけで自分から作り出しているものは消費だけだったりする。たまにはいいのだけれど、何だか少し後ろめたい気持ちにもなって来るのだ。
ちょうどと言うのも変だが、咳も出ていたから暫く歌の自己練習もお休みしていた。出歩いていたせいで、ピアノも一人落ち着いて取り組んだりしていない。音で遊んではいたのだが(バイオリン、オタマトーン、ウクレレ等で不安定な音を出して遊んでいた)。今日からは、一からやり直しのような感じである。たまには、と言いつつも家族がいることによって、「まだ遊び足りない」ような気にもなってズルズルと引きずられてしまう。暫く、いつまでいるかわからないから、ずっとこんな感じなのだろうか。ならこれは一緒にいる人のせいか?いつまでも遊び呆けているのか?遊んでいて、いいのか?自分は何をやりたくて、今のような自由な時間を作って来たのか。そんなことをふと夜中に思い出し、気になっていた。
まぁ、後ろめたさも、後から考えてみたらというだけで、直面していることが中途半端に終わっているように見えるだけのことかもしれない。また始めて続けて行けばいいことだ。そうすれば続けていることになる。たぶん、今回の連休のように、世の中の娯楽を受け入れて、お金を遣うことによって提供された物を享受しているだけだと、結局つまらなく虚しくなる自分がちょっといただけ。急にちょこっと、自分も何か作り出して提供しなくてはと思ってしまっただけ。またゆっくり始めて、やればいい。自分の奏でる音楽に需要が有るかと言えば、その先に無いのかもしれないのだけれど。・・・まぁ、それはどうでもいいことである。
近場と遠出した先で、神社でお参りするときにどんな願い事をしていたかと言えば、手を合わせて咄嗟に「音楽で愛と平和と自由が広まるといいな」と願っていた自分がいるからだ。自分自身が「音楽で」と願っているのならやらないと。音楽を奏でる力を自分自身で育て続けることは大なり小なりこれからも出来るはずだ。自分で願っていることを知っているのなら、そのことをうやむやにして避けて通るより、需要の無さそうな自分の音楽であったとしても、学び続けて行くことは必須だろう。続けよう。ただそれだけのことだな。
連休中、遊んで疲れるまで頭を空っぽに出来たのは確かだから、収穫があったようだ。何をどう転んで、ダラダラ~としていても、何にもやれなかった~と嘆いてシクシク悲しんでも、次の瞬間にどう捉えて何をやるかである。悔いが残った過去も次の行動で未来も過去からの利益も変えられるはず。自分と同じようにヤバイなぁと思う日々を過ごしていた人も、これからは頑張れますよ。どうぞこれからを素敵に。さぁ、動くかな。
では今日はこのへんで。