普段外を歩いていて、よく知らない人から物を貰う。小さなことだけれど、自分には何かしてあげたくなるのかもなぁ。何かをしてあげたいという気持ちに応えてくれる人であるという認識を、自分は常に相手にさせてしまっているのかもしれない。
昨日は友人の演奏会でたまたま近くに座ったグループのご婦人たちから、飴をもらう。演奏会の後、なんだかよくわからない余興があって、隣の人と手を繋いでポーズを取るということにも参加してしまった。何の躊躇もなく、当たり前に手を伸ばして来る。司会の人が「嫌だったらやらなくて大丈夫です。」と連呼する中、自分に良かったら手をつなぎませんか?と声かけするわけでもなく手を繋いで来る。自分は相手の希望をごく自然に受容する人なのだと思われているということに気が付いてしまった。
相手がどんなに何かしてあげたい、と思っても、相手が受け取る人でなければその希望は達成しない。少しでも拒否をするしぐさや視線、空気を発していたなら、どんなに善意であっても正当なものだとしても相手から遠慮されるものだ。自分はどこか素っ気ない冷たい態度を取っているかもしれないなぁと思っていることもあるのに、周りから見れば意外とそんなこともないらしい。きっと自然に受け取っているのだろう。それともあまりにイライラして「気」が尖っていて、周りに気を遣わせている?ということも頭を過る。ははは、なんだかなぁ。
だとしても、最終的には相手の好意的な態度に救われている。相手からの受容して欲しい気持ちが出て来たら、いいよ~と基本受け取っているのだから、尖ったように見える自分や冷たい素っ気ないような興味ない素振りの自分であったとしても、拒絶しない人なのだなと思われるのかなと思う。自分から積極的ににこやかに好意を示さなくても、最低限ギリギリのところで相手の気持ちを汲むことさえ出来たらいいのだろう。
昨日は飴をもらったときに、自分は今日初めて会った人で全く知らない人から気安く物をなぜ受け取れてしまうのだろうと可笑しくなった。まさか、物欲しそうにしていた?!げげっ。・・・いくら何でもそれはないか。コロナの時期には席の隣同士も息を交わさないように小さく過ごして、人が落とした物を相手に拾うような何か物を手渡すことすらはばかられたというのに。今だって感染症が流行していて、体の丈夫じゃない自分としては良いのだろうか?と思う瞬間は思い返せばたくさんある。それなのに今も平気で何かしら物を貰っている日常。
そう言えば、昨日は出演者の一人に「久しぶりですねぇ。」と握手を求められた。即座に「久しぶりですねぇ。」と握り返したのだが、よくよく考えたらそういうこともあまりしない昨今。嬉しいけれど、とても親しくしているわけじゃないのになぁ。けれど握手を断ることもしない自分。何か相手から望まれれば、大抵のことは受け入れる性質なのだろうなぁ。人の情にも流されて生きているように見えてカッコ悪いようにも思うけれど、それが自分の人生を生きやすくしているのかもしれないなぁと思う。
自分では興味がなくても、恐らく人から見ると興味がたくさんあるように見える感じで生きているのだとしたら、嘆くことは無い。何かに強い興味や関心がないこと、好きなことが見つからないことは、つまらなくはならないのだ。自分の心の中で何にも興味を示さなかったとしても、興味を相手から示されれば拒絶しないというだけで十分に充実するものだ。相手からの気持ちを受け取っているだけで、生きる時間は埋まって行く。どんどん忙しくなって来て、その中で少しずつ選んで自分で削り始めるようにもなる。
そのときはよくわかっていなかった自分がいても、削り続けて行って、そのうち時間をかけて大事なものは残るんだよねぇ。何にも面白くないんだよね~と言うとき、面白いかどうかわからない自分がいるということを見ようとせず、与えられた物事すべて受け入れることを単に断っているんじゃないだろうか。全部受け取って、試してみたことあるのか?無いよね~。
では今日はこのへんで。