イライラは要らない、するするスルーな日

毛糸要らない?とよく声をかけられる。自分で編んだセーターを冬になると着ていたからだ。そのときは断ったのだが「家にたくさんあって困っているから」と言われていたのを思い出し、昨日その人に毛糸が今も余っているなら欲しいと連絡を取った。今度、地域のお祭りで小さな人形の帽子を作って子どもたちに配るから、材料の毛糸を集めているという話を他のボランティア仲間から聞いたからだ。今朝渡せる用意が出来たと連絡が入ったので、早速もらい受けに行った。

駅の近くで待ち合わせしたが、駅近くのところにある店まで持って来てくれるとのこと。どこから来るんだっけな~。場所を聞いておけば良かったと思ったが、連絡するとすぐに現れた。かなりの量を詰め込んだ大きな紙袋二つを抱えている。遠いところから持って来てくれたなら申し訳なかったと伝えると、「ここの上」に住んでいると言う。おおぅ、タワマンの住人だったのか。もしかしてと思っていたが、やっぱりなぁ。

編み物をする時間がある人だったり、ボランティアが出来る時間がある人というのは、金銭的に余裕がある人が多いなあと感じる。たぶん毛糸をくれた人はタワマンに住んでいるし裕福なんだと思うが、金銭的なことだけではない。お金を稼ぐことを中心に一日の時間を工面している人ではなく、この目の前の時間をどう使いたいかを考えて手間がかかる事を好んで選んでやっている人たちだ。周りを見ていて、一緒にいる人は働き過ぎて仕事以外は寝ているというような人はいないなあと改めて思った。年齢的に退職されている方が多いということもある。自分はお金は二の次と考えていて、自ら仕事も望んでしていない訳で、手元にある時間の使い方を、何か手間をかけるためにわざわざ空けている。結局同じような状況の人が集まって地域のボランティアをしているのだよなぁ。

この余裕というのは結局時間のことなのだろうか。それとも生活するお金があることなのだろうか。そのどっちもか?そのお金も、多い少ないという金額ではなく、「ある」と思える思考なのかなぁと思う。自分は、金額が他から見たら思いっきりたぶん少ないけれど「ある」と思える人なんだと思う。時間は・・・「ない」と思ってしまう人だからなかなか仕事をしようとは思えないんだけれどねぇ。

暑く日差しも出ている中、大量の毛糸を持って一人帰宅。早速たくさんの毛糸を広げて選別する。地域に寄付する分だけでなく、自分にも使えるなら何か作って使って欲しいと言われたので、遠慮なく使えそうなものを選ぶ。久しぶりに糸を触ってワクワクする。半端な玉がいくつもあるので、ちゃんと何かを編み上げて余った分の毛糸玉だなと思った。それぞれ集めて、ちょっとした編み込みのセーターなら一枚位は作れそうだ。綿の糸でとても細い大きな玉がある。どこかの工房の名前があるから、もしかしたら手よりか草木染めの糸かもしれない。織物のたて糸にしても良さそうだ。使ってしまおう。

ずっと昔に買っていた、ハンドルをぐるぐる回して作るおもちゃの編み機のような物を押し入れから引っ張り出す。細い糸をかけて回してみた。細い糸だから少し手加減が必要だけれど、平たいメリヤス編みの編地を延々と作り出す。編んだものをつなげて、日よけでも作るかな。回しているだけで夢中になる。たまにはいいな。手で編むのもいいけれど、こんな感じもたまにはいいかな。右手で回して、左手で調子を整えて、糸紡ぎをやっているみたいな気分だ。手編みをしているときのニッティングハイと同じかもな。ここのところのイライラが抜けて行く音がする…ってどんな音だぁ?でも確かに心地良くなって来たぞ。カタンカタンするする、すーっ。

では今日はこのへんで。