ショボいがぴったりな贅沢

自分の想像で贅沢なお金持ちの生活というのを考えたときに、かなりショボいと思う。今の生活は気に入っていて、大金持ちではないが、十分に小金持ちな気分でいる。自分のなりたい姿を想像しようというときに、お金がいくらでも自由になるとしたらどうなりたいか、みたいなことを問うて自分を知るというのが以前あったが、全く金銭とは関係ない姿だった。まあ、今の生活とほとんど一緒だね。

お金が全くないと困るが、自分が少しだけ稼げば何とかなる程度のものなのだ。昔のことを思い出す。パートナーと関係が破綻して、投げやりになっていたときに、「よし、自分のためにたくさんお金を遣ってやろう」と思ったことがあった。けれど、たかが知れていた。仕事の後に食べるお菓子を好きなだけ買ってテーブルの上に積んで家族と一緒に夜な夜な食べたり、食べたいときに好きなカフェに入ってお茶をする。だけ。どんなに頑張ってお金を遣っても月に3万円程度だった。笑った。お金を遣うことを考えたときに、お菓子を食べることしか興味がないのだなぁとそのとき思った。体はひとつで、食べられることには限界がある。なので、どんなにお金があっても、今もその程度の贅沢なんだな~と自覚している。まぁ、それこそ自分が思いがけず想像以上のお金持ちになって、見えてくる世界が変わったら変化するだろうと思うけれど、今のところは最大限に贅沢をすることを想像しても、きっとあまり変わらないだろうなと思っている。

それに、まず想像力が働かず、興味が湧かない。お金があっても、食以外にうまく使えない。自分が視野を広げたり、興味を増やしていける性質なら、使い所があるのだろうけれど、そういうことを好んでしないからだ。たまにぽつんと頭に浮かんだ「旅行行こう」とか、「高いチケット買った」とかはあるけれど、それも自分の出来る範囲内だ。車は免許もないから買っても無駄だし、家もこのボロ家をいかに触らずそのまま使えるかばかり考えてしまっているから、買い替えとか建て替えとかも難しい。

ピアノもアップライトが買えるほどの安いグランドピアノだが、買おうと思った頃、親の闘病生活がスタートしたばかりで支出の不安があり、教育にどの位お金をかけるか考えて、それでも最大限出せるお金を捻出して買ったものだ(だからものすごく安い)。そのときからずっと家族や自分を音楽を通して支え続けて来てくれた。最初は子どものために買ったものが、自分の方が付き合いが長くなったピアノ。他に素敵な音を出すピアノに出会っても、家のピアノを買い替えたいとは思わない。

洋服を見ても、「作れそうだ」「編めるかも」「アップサイクルしたら面白いかも」と思って、なかなか買い足すことは出来ない。身の回りのものに関して、作るのは自分の楽しみで、人に任せるのはほとんどないわけで。人に任せたら、楽しみを奪われた感じがしてしまう。今の世の中の仕組みとしては、作る手間を他人に任せることにお金がかかるということを考えると、なかなか、使い所が難しいのだ。自分の「作る楽しみ」をいくつか放置していることもあって、「手間のかからない何か」を楽しむことに手をかけられない。これも、現状自分が想像する「お金のかかるもの」の範疇でしかないのだが。

むしろ、想像がつかないところは自分に見合っていない贅沢ということなのだろうと思う。自分には人から見てショボいくらいの贅沢が十分で適当だ。身の程を知る、という言い方は戒めのように使われるが、そうではないと思う。身の程を知ると、自分にちょうどいいことを適切に無駄なく、しかも手の届く範囲に贅沢があって、それを十分に楽しむことが出来ることになるのだろうなぁと思う。

書いていると、なんだこんなこと誰でも言っているよ、わかっているよ、と聞こえてきそうだが、どうだろう。私が言う、自分についての身の程ではなくて、あなた自身の身の程だよと敢えて言いたい。私がショボいと言っている姿を、なんて贅沢なんだ!!と怒る人もいる。反対に、何も持っていないね、質素だねと言う人もいる。人は違った見方をして来るし、様々だ。ピッタリなことを言う人はおらず、自分で身の程を知るしかない。このショボいと思っている自分の生活は、何でもあるなあと思う生活で贅沢だなあと思う。だからどうした?そう、だから人の贅沢をどこまで眺めて見ていても、自分の贅沢でお金持ちな生活とは違うなぁと思って。

では今日はこのへんで。