楽しい場所へと願って、後は自動運転で到着。

これ何だろう。頭に思い浮かんだ小さな願望みたいなものが叶うということ。もう忘れてしまっているはずの小さな欲が叶い続けている。昨日のビワもバナナも、ほんの少し前「食べたいな」「ああ、そろそろなくなるから買いに行こう」とか思っていたものだ。たまたまだけれど、侮るなかれ。よく言われる話で、自分を左右するのが潜在意識だと言うじゃないか。ならばただ素直に願いを思い浮かべるだけで、願いが叶うってもんだ。ただ上手く行くのはただ「思った」ときが多い。それに付随する「いや無理」とかの否定語が出てくると大抵叶わない。今回バナナもビワも一瞬思っただけでほとんど忘れていたようなものだ。否定するタイミングもなかったからこそのゲットである。

今日も、饅頭を手に入れた。朝から出かけた先でバスに乗りつつ、観光地のお土産でもらうような饅頭が食べたいと思い、帰りに買おうかなと思っていた。けれど、外食や買い物を止めて今日は歌の練習があるからと思って何も買わずに早めに帰宅した。その歌の練習の帰り、お土産を頂くことになる。お饅頭だ。やった!他にも、韓国のお土産の海苔とナッツ。ちょっとたまには違う海苔も買おうかと迷っていたところだった。ナッツは期限が迫った防災用食料の中にある袋を開けたところだったので、次に準備するナッツやドライフルーツをちょうど買おうと思っていたのだ。けれど、こちらはナッツ単体がいいのか、ドライフルーツと混ざっているのがいいのか迷っていた。だから小さ目?なものを手に入れたのかなぁ。それにしても、こういうのはいつも手に入って願いが叶ってラッキーだなあと思える事象である。

こういう自分のラッキーな体験というのは、自分の潜在的な欲求を満たす行動を無意識によって引き起こされているのだろうと思う。自分では気が付かないけれど、知らずに何かを手に入れるための行動に仕向けられているのだ。考えようとしなくても、自分の頭が勝手に考えて、体もそれについて行く。もしかしたら自分が嫌な感じがするときややる気の出ないことっていうのがあるときは、どこかで自分の欲望に抵抗して歯向かっているのかもしれない。そんな気がしている。だから、ただ素直に望むとか夢を見るとか、とても大事なんだなと思う。

子どもの頃はそういうことを考えられずにいて、どちらかというと悪い結果になることばかり考えていた。そのせいか、思い描いた詳細な悪い結果になるということもしばしばあった。反対に、これは上手く行くぞと思っていたことに関しては、それもまた周りが驚くようなイイ結果になったりしていた。こうやって書いてみると悪い結果を考えると詳細まで考えてしまうからこそ、より綿密な計画をきちんと遂行するようになってんだなぁ。考えない方がいいね。こういうのは。と、今なら思う。イイ結果になるものについては、自分がイイ結果だ~と思う姿を強く思い描いていて、それこそその途中経過なんて考えていなかった。けれど、よくわからないけれど話がまとまったり、勝手に物事が進んで動いて行ったりしていた。イイ未来を予知する、みたいな感じだった。きっとそんなふうに思い描いたり願ったりすれば、叶うものなのかもしれない。

まぁ、そういうこともあって、どうせだったら物事は面白かったり楽しいものを思い描けばいいのだろうと思う。単に欲しいな~とか思っていれば、たぶんそれが手に入るところに勝手に辿り着くのだろう。意識に上らない思考や知識、経験の総動員が行われて、動いて行くのだろう。何となく行ってみようとか、何となく見てみようという行為でさえも、手に入れるための知識や経験を得られる場に誘い出されているだけかもしれないのだ。自分で見ようとしていなくても、体や頭はそれを見て感じているはずだ。意識に残っていなくても、記憶には残るとか。そういうことはあるかもしれないのだ。

ここまで書いてくると、自分の他力本願って思っているものも、実は自分の無意識の動きがあって人の中に入って行くことによって、その結果助けられているのかもしれないなあと思えて来た。恐るべし潜在意識。饅頭も実は予測していたのか?歌の仲間がどこかに行くという話を実は記憶のどこかにしまっていて知ってたとか、もしくは意識はしていなかったが耳は聞いていたとか。バナナもビワも「この時期、実家に余っているじゃないか」とか思っていた?ねぇ、自分、思っていた?・・・問い詰めてもわからない。思いついたことをただやって行けば、望んだところに辿り着くのは実感としてある。だから、今日も書いてみた。この先のどこに辿り着きたいのか。手に入れたいものはなんだろう?今はわからなくても、いつも気の向くところヘ行こうっと。

では今日はこのへんで。