パントマイムやるなら、こちらから先にやり始めよう。

ここ1ヶ月位のことだが、自分の親の家の片づけをしている。数年ぶりに訪れた家は私から見ればゴミの山。いろいろと放置されていて、やっぱりなと思った。仕方ない、出来る範囲で片付けようと思ってやり始めたところ。

以前は、親のお金の遣い方を見て荒く感じ、意見すると喧嘩になってばかりいた。一向に話を聞いてくれないことに対しても腹立たしくなり、意見も言うのも暫くは止めていた。ある時期、借金を重ねて生活が苦しくなった過去があり、今後の生活がまた大変になるだろうと思って声をかけていたが、こちらが悪く言われることが多く、いつも電話がかかってくると反射的に嫌な気分になっていた。電話も取るのが嫌になり、暫くは家から遠のいていた。

なぜ、再開したか。親の言い分よりも、自分の方がもしかして考え方が変なのかもしれないと一瞬、本当に一瞬、「ん?」と思ってみたことがきっかけとなり、腑に落ちるところがあったからだ。

結局、親と子は違う生き物。親がどう言おうが考えようが、どんな行動をしようが、それは親の人生。私自身の考えとは違うものだ。他人には違うということを許せていたのに、親に対しては許せない。親の行動や考えを縛る言葉や行動をどこかでしていたことに気が付いた。誰もが自分の人生を生きることが出来る。自由なはずだ。それなのに、身近な人の人生を、自分の考えで縛り、私が考える良い人生が正しいとばかりに押し付けてしまっていたのだ。

ゾッとした。人の人生に口を出し、操作するようなこと、自分がされたらすごく嫌なのに。ガーン、という音はいつもなら鳴りそうなのに、そのときはなかったが、最低だと思った。

親子であることに甘えて、お互いに遠慮がなかった。そのことがいいところもあるけれど、お互いの関係が上手く行かないようなら、適切な距離をちゃんと作った方がいい。お互いに自立した大人なんだから、と頭では思っていたけれど、私自身が全然そんなふうに大人として振る舞っていなかったことに気が付く。幼い子どもの言動で過ごしていたように思う。普段、誰かが話を聞いてくれないからと言って、大声で怒鳴るように話したりしないだろうに。結構声を荒げて話していたと思うし、親の言葉に耳を傾けることをしなかったように思う。

人は鏡のようなもの。相手だって、同じ振る舞いをしてくるだろう。私が子どものように扱われても仕方がなかった。反抗期の子どものように「なんでも意見ぶつけて来て反抗しやがって」と親からはどこかで思われていたかもしれない。恥ずかしい限りだ。

まずは自分の態度や行動、言動は変えられると思って、週に一日くらいのペースで続けている。今日も行くはずだったが、別の日にすることになった。これを書いている時間にもあれやこれや電話がかかってくる。マメな人だ。そう、以前だったら「また電話かけて来た!」と反射的に嫌な感じがしていたが、今はそうでもない。この人はまたかけてくるんだね、と思うだけだ。

それともうひとつ。電話、お金の問題や片付けに限らず、なぜか全部私がやろうとしていた気がする。何でもかんでも頼られてしまい、時間も体力もなくなって、苦しくなっていたこともある。けれど、これは危ないことだとわかった。こちらが全部しようとすると、相手も全部頼ってしまうもの。こちらの行動で、全部頼っていいんだと相手に思わせてしまったことが多分にある。誰でも自分の人生だけで手一杯、精一杯だ。人の人生を背負ったり、生きられたりしないのだから。

「出来ることはやるけれど、出来ないこともあるからな。」と言葉にもしている。以前だったら「そんな冷たいことを言わないでくれ」と度々言われたが、今はない。ふーっ、良かった。以前なら安堵のため息は出なかったよなぁ。

では今日はこのへんで。