どこへ行くにもこんなにいつも一緒にいるヤツは他にはいないのに、それでもなぜそこで叫ぶのか。

夜中の水分補給のため、または暴漢が現れたときに応戦する道具のひとつとして、枕元にお湯を入れた水筒を用意して寝ている。まだ思っていたほどには活躍はしていないが、最近その水筒の引退が間近に迫っていることを感じている。

昼間持ち歩くときに、お茶がこぼれていることが多々あるのだ。最近では少し倒れてリュックに入っていると、こぼれ出したお茶のせいで自分の着ている上着やボトムまでもがしっとり濡れている。これはまずい。カラッカラに晴れていて雨も降っていないのに、背中からお尻まで知らない間に染みわたっていて、自分だけ局地的大洪水の後である。残念なことに、今は冬服だから厚手で気が付くのが余計に遅くなるのだ。たっぷり水を含んだ後にならないとわからないので、気が付いたときは軽く絞れることもある。道端で上着の水分を絞る姿はとても奇妙だろうな~。何しているのだろう。

それに加え、もちろん想像の通りリュックの中も入れていたものが水浸しになり、たまに底の方で逃げ場のなくなった水がたまったままになっている。こんなになるまでこの水筒を使う理由もないのだが、「倒れなければ」と思ってタオルを巻き、袋などに入れてまだ持ち歩いている状態だった。

「君は一緒にいると手間がかかるねぇ。」

手間をかければかけるほど愛着が湧いてしまうもの。愛着が湧いたとしていても、なんだか歪んだ愛であることは自分でもわかっている。いや、たぶん愛ではなくて、買いに出たり、また選ぶのが面倒くさい、物体がそこにあるのにお金をかけるのが嫌なんじゃないかっていうのが理由だよな。エコでもあるけれど、生活に支障が出て活用出来ていないんだから使うのを早く止めればいいものを・・・である。

変えよう変えよう、買おう買おう。踏ん切りがつかない。だが、感覚的には今朝になってやっと愛が冷めた(はず)。今日は買いに行こう。夜中に頻繁に起こされる最近の地震の揺れにプラスして、こいつは頭の上の方から叫び声を上げて来るのだ。投げたら叫ぶサルの人形とか、押して手を離すと叫ぶニワトリのおもちゃみたいに。わかる人にはわかるだろう。眠りかけたときにやられると何だ?!と驚き、こいつが叫んでいるのだとわかると思わず声を出して笑ってしまって目が覚めてしまう。寝つきがものすごく悪い人なので、再び寝ようと思っても眠りに入りづらい。どうしたもんか。いや、買い替えろって。

日に日に叫ぶ回数が増えている。空気が抜けているところが多いってことだよな。それは分かり切っていたことだ。温度がみるみる低くなるし。でもいいところもあるんだ、聞いてくれ、アツアツを入れたら普通はすぐ飲めないけれど、こいつは適度な温度になってくれるんだ。間違っていると思うけれど、自分的には便利って。それじゃあ、叫び声に慣れればいいのか?何回か叫んでいるのが増えれば慣れるって。気にもならなくなるよ。え?ん?何のために慣れる?・・・だらだらと思いつくことを書き出してみているがどうだろう。やっぱり水筒としては機能していないんじゃないだろうか。

ということで、でもないのだけれど、叫ぶ水筒とはお別れを決めた(はず)。朝起きてからも机の上で、あーーーっと叫んでいた。ここまで書いていて自分の中にこれだけの愛着があるんだなということを知る。カッコ書きの(はず)がなんだか痛々しい。いつの間にか水筒を「こいつ」と呼んでいる。仕方ないので水入れて置いておく?まだまだ叫ぶ水筒の活用を考えてしまう自分。この日記にも書いてしまう始末。こんなに気になるなんて、叫ぶ水筒は私に愛されているなぁ。水筒が叫んでいるのは、ところで何なのだろう。愛?下手なオチだ。

変なことを書いてしまった。では今日はこのへんで。