自分にとって背負える荷物をちゃんと持つことにする

出来ることしか、出来ないから。と言って地震での被災支援に演奏会を開いた演奏家たちが言った言葉が胸に刺さる。帰り道、ぼーっと考えた。音楽家は音楽を奏でて支援することが出来る。私は何が出来ているのだろう。自分が長い間やって来たことと言ったら、今まで目についたところから片っ端から手を出して来たこと。呼ばれれば一度は顔を出したり、当事者やその周辺の支援をしている人から状況を聞くことは欠かさないようにして来た。それがもしかしたら相手の時間を割いてしまって悪いことをしているのかもしれないと思ったこともあるが、支援をしてもらいたい人にとって、自分たちのことへの興味をまずは持つことを欲しているということを知って、今は関わったときは必ず直接質問したり、聞いたことを覚えておいて、他の人に話すようにしている。本当に小さなことかもしれないが、「知った」ことによって、自分では出来ないことも誰か他の出来る人が力になって行けるきっかけを作っているはずだと思っている。

今の私は現場に行ってもどちらかと言えば役立たずだと思う。若いときはまだ体力があったし、若いってだけで重宝がられたけれど、今では土埃だけですぐゴホゴホいってしまう体を持ち、腕力が無く、自動車の免許すら持っていない自分に何が出来るのかなぁと思う。メンタルが落ち込んでいる人の話を聞けば、同調して一緒に落ち込んで行き、余計に落ち込んでいる人の数を増やすだろうなあと簡単に想像つくのだ。今の私は現場ではちょっと無理だ。

紆余曲折も経て、その他の支援や後方支援に回った方が良いかなと思い始めている。そう、現場より関係のない人のところで何か出来ないかなぁと。少なくとも、自分一人くらいは元気にしていて、一通りの生活を営めて、他人から見て滞りなく過ごしていて、支援が必要そうな人ではないな、ということを示していられれば、今の自分はそれで充分であると思う。手間を増やすとか邪魔をするとか、足を引っ張るとか、それを避けられれば、ひとまずはいいかなと自分では思っている。日々の暮らしの中でプラスの力より、マイナスにならない努力。0くらいがちょうど目指すところかなぁ。

現場に行かない代わりに、現場に支援に行っている人が帰宅したときの疲れを癒す場をここで作るとかも出来るはずだ。みんなそれぞれ、持ち場は違う。普通の、今までの生活ってどんなだったろうか?と思い出せなくなってしまわないように、普通と言われた暮らしを続けて行くことだって、十分支援だと思う。その中で多少は募金をすることだって出来る。現地の経済活動を軌道に乗るまで「買う」行為で支えることだって出来るはずだ。何にお金を遣うか選べばいい。お金を遣えなくても、エールは贈ることも出来る。呼びかけに答えることも出来る。あと何が出来るだろうか。思いつくまま書いてみた。

まずは自分の暮らしをちゃんと続けられること。もちろん、助けて欲しいと思ったときは誰かに助けてと言えることも大事。もし、私のような人が早く現地に行かなきゃいけない状況になったとしたら、この日本は危機的状況だろう。まだ、大丈夫なのかもしれない。他の国の人がJOCAを通じて、日本の被災地に支援に行っていることを知ったが、世界も自国ではなく他の国の支援に行けるくらいの平和な状況がまだあったりするのだろうと思った。だから、今はまずは自分の生活を滞りなく続けることをまず第一に考えたい。

とは言え、昨日は財布の中にお金を入れて行った。募金になる会費と現地の作業所が作っているTシャツを買った。たくさんお金を持っている訳ではないが、今日は買おうと思ったので買ったのだ。買えない日もある。お金を出せない日もある。今日はここの被災地、明日はここの団体の支援というふうに違うところでもいいはずだ。どこか一点集中で支援するより、あちこちいろんなタイミングで。たくさん支援先はあるのだから。自分がやっていないときは、他の人がやっている。一人ですべてを負うことはやめて、いろんな人の力を借りて支援するのだ。自分に今出来ることしか、それこそ出来ないのだから。無理せずに。

では今日はこのへんで。