長い目で見て、結局は大きな自然に甘えています。

合唱の練習日。前回休んだので、ほぼ一か月ぶりである。だが、久しぶりに会った先生の体調が今日はすこぶる悪いようで、椅子に座ったままの指揮。本番が近いので心配である。年齢と持病、足の痛みも出ていて、学校の仕事も休んだようだ。自分たちの合唱団の練習には参加してもらえているので、本当にありがたい。

自分らの参加しているアマチュアの活動は先生の雰囲気が大きく影響する。集まるメンバーが先生を中心に慕っているか否かで団の雰囲気も変わる。もう20年ほど指揮者が変わらないまま過ごせている。もし、ここで先生が倒れられて続けて行くことが出来なくなり、新しい先生を探して交代ということになってしまったらと思うと恐ろしい。長年この雰囲気で固まって慣れてしまっているから、指示1つを取ってみても、変化があり過ぎてついて行けないかもしれない。今ある心地良い対話の中でのコミュニケーションとは違うだろう。ひとまず学校が無い春休み中の休暇を取って頂いて、本番に向けて養生して欲しいと思う。

帰りは近況をピーチクパーチク話しながらなので、道を行く間、周りには結構うるさくて迷惑をかけているだろうなぁ。公園を通り過ぎるときに、自分らの子どもたちが小さかった頃から遊んでいた場所の桜が切られているのを見た。大きくなり過ぎて仕方が無いのだろう。最近はニュースでも知らされるように、倒木で怪我をされている人がいるのだ。そのせいで大きく育ってしまった桜はいつ倒れてもおかしくないから、公共の場所だからということで早々に手を入れられている。そのままだと危険になり仕方がないのだが、大きく華やかに咲いた桜は何年も見事であったから惜しい気がしてならない。

時の流れを感じる。口々に「仕方が無いよネ。」という言葉が出て来る。人間が住む環境だから、危険なものと思われた場合はザックリと切られる形で手が入るけれど、これが自然の野山であったのなら、もう少し手の入れ方も違うだろうにと思う。人の手で作られた自然の中で住むのだから、自分で育つ場所を選べなかった一本の桜という存在は可哀そうである。今後は人のために緑をということも、本来の自然が自然に生きられる場というのももう少し考えて行くことも必要ではないか?本当に好き勝手に人のために植えられた植物が、これまた人の都合で切られて行く。悲しい。

そんなことを言いながら、自分も自分の庭で好き勝手に植物を植えて、自然淘汰させてばかりいた。この植物は自分の庭の土に合うのだろうか?と試して、枯らしてを繰り返していた。酷い奴である。身勝手だったなと思う。今も実がなる草木を植えている。環境が良いとは思えないが、「育って成長してもらっている」。今はそんな気持ちだ。実がつけばその実を分けてもらっている。花が咲いて、実がつく。どこまで行っても、人はその植物から横取りしていることに変わりがないな。いや、自分なのだが。せめて、自然の恵みを頂いているということを感じながら、植えてしまった植物を大切に出来るだけ全うさせてあげたいと思うのだ。

今は、放っておくやり方を止めて、手をかけるようにしている。先日三つ葉の端っこの根を分けて、ベランダに置いた土袋に植え付けた。このカラカラの空気に負けないよう水分を欠かさないようにしている。元気に育っている。結局は自分が食べちゃうんだけどネ。ただ、まだ生命力を持っている野菜の端っこは、今後も育ててあげられたらいいかなと思うのだ。育てて、自分が食べてしまうのだけれど、植物もほんの少し「使い切る」ということを意識してみようと思うのだ。手間はかかるが、自分のためにもなる。

自分の庭を見て思っているだけだが、そこにある自然の強さに甘えていたのかもしれないよな。自然の物に手を加えるという行為が、あまり良くないような気がしていたというのもある。でも、人間も自然の一部として存在するならば、変化をしてしまった自然の何かしらの場面で手を加えて、影響し合うこともアリなのかもしれない。もちろん、全部が全部ではなく、自分の必要な物の範囲に少しだけ手を貸す程度ではある。自分が食べるために、生きるために、ほんの少し横取りさせてもらうために手を貸す。自分の手の中の範囲だけ。他人のために大きくやろうとしてはダメだとも思っている。昨今では、自然の強さにぶら下がっているだけでは、今は自然が育たなくなっているようにも感じているなぁ。少なくとも、人が住まう環境では、自然が自然のままでは生きられないようである。少しでも長生きさせて、少しでも、あるがままに生かしてあげたい。これももしかしたら人間の身勝手な欲かもしれないが(いや、自分だね)。

もはや、人間の影響は地球上で多大になってしまっているよな。宇宙から見た地球の姿は数年で変化しているもんね。見て見ぬふりなど出来ないなぁ。今まで安易に手にしてしまったものを少しずつ自然の中へ戻して行く作業も必要なのだろうと思う。家の前の畑も、ただの荒れた野原になって来た。人の手が入った営みのある土地の姿を失って自分は寂しがっていたけれど、土があって植物がそれぞれ自由にせめぎ合って育っているのだから、それでいいのかもしれないと思い始めた。

まぁ、いつか近々建物が建ってしまい、アスファルトなんかに埋められて、人工的な場所となるまでの短い期間、自然自体の力であるがままに育っていく時間が与えられただけでも十分かも知れないと思う。一時だとしても、その時間があるのとないのとでは、自然の繁殖力が途絶えてしまうかどうかが大きく変わるだろう。その後住居なんて物も廃れてしまって、もっともっと長い年月の先に、育って眠った種が土の中から芽を出して行く時期もあるかもしれない。人類が生きている時間よりもきっと長いだろうよ。人が手を貸すなんて、戻すなんてことを考えて何かしたって、そんな小さなことは、自然の植物たちからは余計なお世話だと言われそうではあるな。

ここまで書いていて、自分が考えていた自然の力や生きている長さ、生命力のようなものは、元々時間の考え方がきっと違うのだと気がついた。人が一世代生きている位では話にならないな。もっと長い年月だろう。自分の一生分の間位だけ、手を貸していたとしても、その後は力強く勝手に自然は元に戻るのだろう。あまり心配しても仕方が無いか。自然は人類というものよりは、しぶとく長生きだ。だから、自分の身の周りの自然や植物を育て、手を入れて守り、自分が生きている間はほんの少し横取りさせてもらって、自分も自身の一生を全うするかな。

グダグダ書いてみた。庭の植物を自然と呼ぶには小さいかもしれないが、自分の手に収まる範囲くらいは手をかけて大切に育ててみようと思う。野菜作りも、草も木も。自分が地球に広がる自然全体のことを考えるなんて、欲張ってはいけないな・・・恐れ多い。では今日はこのへんで。