どうするかはお互い自由なんだけどさ、このたった一本の傘で一緒に雨を避けることが出来たらすごくない?

冷たい雨が降っている。傘を差している人が多い中、傘を差さず歩いている人がいた。一度通り過ぎた。こんなに冷たい雨が降っているのになぁ。傘を差さない理由があるのなら、そのままにしてもいいのかもしれない。人の自由だ。

けれど、自由ってどうなのだろう。こちらから見て、いやきっと誰から見てもいかにも不幸になる道へ進んで行こうとする人や、自分自身を傷つけている人を本人の自由だからいいよと自分は思えるのだろうか。出来ることがあったなら、こちら側のメッセージは伝えたいとは思うのだ。選ぶのはもちろん、本人の自由なんだけれど。手足を縛って永遠に閉じ込めるなんて出来ないし、やったとしても、それが幸福と思えるなんてことはないわけで。

少し話が飛び過ぎてしまった。今日はボランティア関連の講座に出向き、少し暗い話も聞いた後だからかもしれない。ひどいよなと思うのは、子どもの死因で一番多いのが自殺なんだということ。何度もあちこちで聞いている。とてもいやなことだ。病気や事故死ではないのだ。そのことを知っている人はどのくらいいるのだろう?

ちょうど3月は自殺が多い月でもある。電車に乗ると、電子公告で頻繁に相談先の情報等が流れていた。世の中も、自分の生命について考え込んでしまっている人へ向けて「あなたは大切な人です」と一生懸命メッセージを送ってくれているなぁと思った。形だけだとしても気にしてくれてるんだな~。ねぇ、そうだよね?

身近に相談したい人がいない時は、知らない人に話すのがいい。でも、世の中には弱みにつけ込んで怖い人もいっぱいいるから、安心出来そうな知らない他人がやっている公共の相談窓口なんかどうだろう。見回せばいっぱいあるのだ。電話じゃなくても、LINEとかでも出来る。話すこと自体が苦手でも書き込みは出来る(私向きだ!)。

どうだろう。身近な人に話すのは難しいことが多いじゃないか。親しいからこそ、悩みを打ち明けてしまったら迷惑をかけて(関わって)しまうと思って言い出せないことは多かれ少なかれあるものだ。それに勇気を振りしぼって気にしながら話すなんて、すごく面倒になっていって、何から話していいかわからない。・・・想像すると話せなくなってしまうなぁ。

大人と呼ばれる年齢になったら、親なんかには到底言えないことも多い。最初は親しい人や親など、そばにいる人には無理して打ち明けず、どちらかと言ったら物理的に距離があるとか、自分の普段のテリトリーとは違う交友関係なんかにまずは軽く話をしてみてはどうだろうか。

私自身のことを話すと、たまにしか会わない遊び友達や趣味の仲間、ネットだけで付き合っている人、ある意味閉じられた世界での仲間に話す方が話しやすかったように思う。別にそれで充分良かった。結果として後々、目の前で何かあるわけではないから気にしないで過ごせて、お互い気が楽だったんじゃないだろうか。

もちろん最初から安心出来る身近な人に話せたらよりいいかもしれない。案外、自分のことをよくわかっているから、簡単に解決してしまうこともあるだろう。

ここまで書いてきて、これは誰に向けて書いているのだろうか。ただ思いつく、思いの垂れ流しである。誰か、に話せるというのはいいことなのだ。この日記も然り。

最初の傘の場面に戻る。いつもなら傘を差さない人について気にも留めない。いろんな人がいるので、自由意思で過ごしているんだな、と納得して過ぎ去る理由を作ってしまうことが多い。もしくは自分にその場を過ぎ去る理由があるときは「申し訳な~い」と心で唱えながら去る。今日は通り過ぎた後、急ぐ理由もないことに気が付いた。自分にここを急いで去る理由がない。あの人は冷たい雨の中一人歩いている。しかもよく見ると杖で両手がふさがっている。「傘が差せないんだ!」ってことにやっと気が付いて、戻って声をかけて傘を差した。これくらいは出来るんだよな。自分も生きていて十分だと思えた。出来ることをやればいいな。

では今日はこのへんで。