ゴミの山をせっせと作っている人は誰だ?と鏡に映った自分に向かって言う。

服を処分した。ずっとしまい込んでいたスーツ。とても好きだったがサイズにゆとりが無くなってしまって入らない1着と改まった席で着る1着。思い入れはあったのだが、見て眺めるにはもういいだろうとも思えた。とても綺麗なまま存在していたが、外で古着として買い取ってもらえても、供給過多なこのご時世なので、値はほとんどつかない。買い取りしてくれたスタッフが「服は・・・ね。」とつぶやいた。一度人が使って、また誰かに渡すというときには、元の価値よりも大抵はマイナスなのだよなぁ。

誰かに使ってもらえるかどうかわからないが、自分の手から離すことにした物。査定してもらっていたレジカウンターの奥には、まさに山になっている服の山が見えた。きっとどんなに今まで大事に持っていたって、手放すというときは買い取りというゴミの山に放り投げるのと同じなのだなと思った。心が痛む。そういうものなのだ。だからこそ、買う服は一生着倒すつもりでいないと手に入れてはいけないな。

売りに行った近所の古着買い取り店は、いつ行っても物の墓場に見える。行く当てがなくて、溜まっている感じがする場所だ。だから、余程のことがないと行かない。手にしていた物を真っすぐごみ処分場へ行かせることをためらっている人が送り込む場所のようなもの。自分にとってはずるい選択のような気がする。もっと場所を選べば良かったかもなぁ。もう少し売る環境の良い買い取り業者に託せば良かったかもしれない・・・等と一瞬考えたが、結局のところ、何を言っても自分から手を放して捨てたのと同じ。どんなにいい言葉を使って扱ったとしても、その物は自分にとって「ゴミ」になったということだな。ごめんよ。そして今までありがとう。お疲れさま、だ。

最近、自分が着なくなって、それを眺めていていいスペースも足りなくなった(一緒に住む家族の服が増えてしまったから、というのが言い訳であり事実なのだが)。まぁ、そういう自分の生活の変化もあって、手放すにはちょうど良い機会だったと思う。スーツなんて、昔の自分を思い出すためだけにあったような物だ。もう要らないよな。年を取ったときになるべく過去を片づける負担が少なくなるように、これからはどんどん手放して行くつもりだ。

今回スーツを売りに行って、お金という価値には全然ならなかった。たぶん実際にはある程度価値がつけられ、その中で最終的なごみ処理手数料が引かれているのだろうよ。手の平に納まる小銭となった。けれど、ありがたいことに「場所」という価値を明け渡してくれている。それだけでも大いに助かる。今大事にしたい服が気持ち良く存在出来る場所が出来たのだ。

それにしても部屋を見回して、自分が手にした物は多いなと思う。店でゴミの山みたいな服の山を見たせいか、本当に馬鹿みたいに手に余る贅沢を欲して手にしているのが人間なのだなと改めて感じてしまった。好きな物を選ぶ自由があるというのは贅沢だよ。今、それを贅沢だと感じる人はどれ位いるのだろう。自分はまだまだ贅沢に暮らしている。豊か過ぎる贅沢な暮らしをしているゾと思う。まぁ、他人から見れば自分は相対的貧困層の一員のはずなのだが。

では今日は合唱の練習へ行く。今日はこのへんで。