向こう側にも隣にも自分と同じように「人」が生きているんだ

これから誰の手を掴むのだろう。ボランティア団体の中で数年活動して来てわかったことは、いろんな人がいろんな問題を抱えて生きているということ。誰の力になるのがいいのだろう?自ら「助けてくれ」とは言わなくても支援を必要としている人がたくさんいるこの世の中である。いくつかの場面で身近で出来る支援の需要が転がっている。人の数だけ悩みというものは千差万別で存在し、ボランティアという形のみならず、助け合える場がたくさんある。そのどれにこれから自分は関わるのか。仕事という形でも人助けは出来る。お互い様で協力して、それぞれの負担を軽くすることだって出来る。さぁ、何をやるのだろう?

ごく普通の生活の中で、人との間で出来るささやかな気遣いも、ボランティアだ。積極的に誰かの悩みを聞いてあげることも支援ではあるが、抱えている問題に気がつかないフリをしてにこやかに穏やかに距離を置いて、ただ気さくに話すことだって、ボランティアである。関心を持ち過ぎず、そっとしておく時間が必要なときだってあるのだ。結局、目の前の人と共に自分が心地良いと思える空間作りを常に努めることに終始するものなのかなと思う。抱えている自分の暗い問題を忘れる時間だって、人には必要なのだから。

自分は人と話をすることだけしか出来ないなぁと思って、そのことに囚われていたときも自分にはあったように思うが、今は相手が話したいならば話せばいいと思えるし、望んでいないときはそっと距離をおくということも自然に考えられるようになった。問題を解決すればいい、それが幸せなのだ、とどこかで思い込んでいたのかもしれないな。今はそうは思わない。人生の中でいろんな時間があり、幸せというものも人によって違い、人の数ほど存在して様々である。何も抱えていない自分みたいなのが幸せかと言ったら、そうとも言い切れないだろう。支援をしたとしても、その人自身が幸せを感じられないのなら意味がないのだ。他人が思う幸せを押しつけていないかと自分に常に繰り返し聞いてみる。そうやってずっと試行錯誤しながら生きて行くものかなと思う。これがいい!絶対!という固定されたものなど存在しないなぁ。とても頭が固かったなぁと思うよ。

支援する側の人も、様々な悩みがたくさんあって、完璧な人はいないし、何が得意で何が苦手なのかも異なっていて、毎日大変でというのが実情。それなのに、支援される側から見たら、支援する側の人は「幸せで不安や困難を抱えていない人」に見えるのだなと思ったことは多々ある。人はそれぞれの自分の居場所をそれなりに見つけて、ただただそこで頑張って生きて行こうとしているのだなと感じた。おい、今更?

と言われそうだが、どこか支援する側の人というのは、ちゃんとした優秀な人で、スーパーマンじゃないが人間離れしているような気になっていた自分がいる。自分なんかがやっていていいのだろうか?と渋々自分がたまたま支援者側に明確に立ち、その場の横並びの人の顔を覗いて見たら、自分と同じようなデコボコした人たちがただただ懸命に目の前のやることをやっているというだけだった。この世界は、才能のあるスーパーな誰かが何かをやってくれることなど恐らくないのだということを知った。誰もが自分の大変な生活を抱えながら、出来る限りの力を振り絞ってやっているだけなのだな。

だから、支援者同士がお互いを理解をすることだって完璧じゃないし、何かの計画についてスムーズに事が運ばないことはあるし、言い方や言い回しが良くないなぁ等の愚痴も多く聞いた。でも、自分はそんなことはどうでもいいことのように感じている。みんな、ただの「人」なのだ。出来るだけのことをやっているのだ。仕事としてやっている人も、ボランティアとしてやっている人も、結局はただの人の集まりである。お金を貰おうが,貰わなかろうが、関係ない。みんなの力が少しずつ形を伴って社会の仕組みを動かして、より良い生活が出来る様に努力しているんだなと感じた。

だからそれぞれの人がやっていることに対して自分は不平不満を今感じていない。それぞれの人については、どうしようもないのだなと思ってしまったからだ。では自分は何をするのか、という点で考える。組織の仕組みが悪いのかもしれないし、そもそも上手く行かないように出来てしまっているのかもしれないが、指摘出来るほどには詳しくない。詳しくなって、活動に参加するというタイミングでは今はないだろう。それは他の人に委ねる。自分は何をやろう。今はいろんな意味でフリーである。

では今日はこのへんで。