はぁ~。大きくため息をつくような呼吸を意識的にしなければならない忙しい時間を過ごした。いや、別に遊んでいただけなのに、一日に何件も用事が入ってしまうと、どんなに楽しいひとときであっても、疲れるものなのだ。週五日延々と働いていろんな人と会って、違うことを集中しながらやっている人は体力があるなぁと思ってしまう。フルタイムで勤務するなんて、きっとこれからもないなぁ。頭を使うのと体を使うのと同時に8時間近く毎日取り組むなんて、疲れ過ぎる。
働いたり遊んだり、生きているときには自分の外側にあるものとコンタクトを取るという作業を続けているようなもの。自分はひとりでいる時間が長くないとダメだなと思う。楽しいこともやはり刺激だったりストレスというものになるのだろう。あ~楽しかった!というのはあ~疲れた!と同じようなものかもしれない。まぁ、全力で過ごしてしまうからだと思う。
神経が高ぶり、ずっと頭が動いてしまう。それでも、年を取って来て、頭だけでなく体がちゃんとクタクタになっていることもあって、ありがたいことに休息を取ることも出来るようになって来た。年を取るというのもなかなかいいものだ。体が若かった頃は動ける間は動けてしまうせいで、寝つきが悪かった。休めない体と頭で過ごすと故障するのは否めない。度々熱を出しては寝込んでいたように思う。今は頭よりも体が勝手に歩みを止めて休まるので、動き回ろうとしてしまう自分にストップがかかるようになった。休みを入れようとか、もう止めようとか、体を意識的に休めるのと同時に頭の中も諦めモードになる。年を取って来た今がちょうどいいのだ。
いや、だがどうしても予定が詰まって来るとぐったりするまで動いてしまうことになる。なるべく早めに切り上げたり、他の余計なことを削ったりするようにはなったせいか、「寝込む」までは行かないけれど、今日みたいに昨日までの予定が詰まった後は早寝をしておかないと疲れがどっと出て暫く何もしなくなる。当たり前かもしれないな。人間は使った体を回復する時間が必要なのだ。それを無視して動き続けることは出来ないもんな。そのまま動き続けていたら免疫も下がり、回復にも時間がかかることになるだろう。
睡眠だけでなく、ひとりで瞑想するようなぼーっとする時間があった方がいいだろうと思う。次々と氾濫して攻めて来るような情報の中で、人と会い、感じて、新しい自分というものは次々と溢れるように生まれ、更新されていく。けれど、放っておくと自分が何を考えていたのかを忘れて、ただ流されるまま更新してしまうことになる。少しずつ変化が起こり、新しくなった自分ばかりと付き合って生きるのもいいけれど、望んでいた生き方になっているかどうか、たまには自分を確認した方がいいな。確認して、全く違う方へ進んでいて面白いと感じられたら、安心して向かって行けるだろうし。良く無ければ方向転換出来たり修正出来る。
こうやって書いていることも自分の記録を確かめることが出来て、自分のためになる。もちろん一部分であるし、変化はつきもので、今日考えたことは明日すべてチャラになることだってある。けれど、その道筋が自分の言葉で記され、今ここにいる自分に繋がっていることは確かである。忘れ去った自分を思い起こし、驚くような自分を目の当たりにすることもある。文なんていくらでも書けるのだから・・・と若い頃は思っていたせいで、残している意味をあまり得られなかったが、最近は少し違う。若い自分と時間が離れれば離れるほど、「年齢によってそのとき考えることや思うことは違うんだな」とはっきりと感じる。同じものをみ見て20歳で思うことと30歳で思うこととは違った。その後も・・・。その年代ならではの視点だったり、感じ方であることも多い。あのときは若かったから出来たこと、なんて言葉は今になってやっとわかることである。本当に若いときはピンと来なかったし、その言葉に不満だったこともある。それなのに今はすんなり入って来るのだ。
きっとこれからも年を取って行って、初めて感じることもあるのだろう。まだワクワクするなぁ。同じような暮らしがずっと続くのだろうと考えた若い頃は愕然としたこともあったが、そんなことはないな。いつだって年齢を重ねて行くと変化が怖いほどあるし、新しい感覚が生まれる。初体験ばかりなのだな。
昨日までボランティアでの活動を一緒に重ねていた小学生の保護者と話す機会があって、この子たちが大人になったときに頼もしいなと話していた。活動をして自信がついたようで、普段の学校でも活発に動いているようだ。子どもたちとたまにしか会わないし、元々優秀で活発な子たちという印象であったが、そばで毎日見ている保護者にとっては活動だけでなく、最近の生き生きとした姿を多く見られることはさらに嬉しいことなのだと思う。自分もその子たちの活動を2年ほど見て来たが、本当に頼もしくなったなと思っている。
これから先、12歳の子があと40年経て自分と同じくらいの年齢になったときに、案外同じような立場になって子どもたちの活動を支える側に回っているかもしれない。そのときたぶん自分は生きていないだろう。自分はいないけれど、脈々と受け継がれるのかもしれないなぁと思うと、少し生きていることの不思議さを感じた。必ずしもこの活動体験が引継がれるとは限らないし、世の中が大きく変わるかもしれない。けれど、自分が動いていたことで、何かしらの影響を子どもたちに与えている時期があったのだと思うと、そうなるとは確証も無いし、自分では絶対に見ることも出来ない姿ではあるのだが、なんだかとても誇らしい気分になる。こんなふうに思うのも、年を取ったからだろうか。
人が生きた、というのはそういう意味でも自分にも他者にもとても影響があり、価値があるのだろう。まるでタイムマシンに乗って未来を見ているかのように、自分の考え無しにやっている行動が実は良い未来を形作る希望を託していたり、影響していたり、もしくは悪い影響も与えていたりするのだろうなぁ。自分が生きていることがどうせなら良い影響であって欲しいとは思うが、良いか悪いかは後の時代に生きる人たちが決めることで、変えることであるのだから、自分はただ夢想するしかない。先人たちが残したこの世界を少し自分が思う良い方へ出来るかな~という感じで動いて行くのみ。今日は何をしよう。ブログは書いた。さて、後は?
では今日はこのへんで。