文字を読むと?

出張の土産を持って家族が家に来た。ああ、そう、自分が家族というふうに書く相手は自分の子どもである。でも、いつも子どもと書くと20歳を超えた立派な大人なのに・・・と感じていることもあって、家族と書いている。自分の「家族」と感じるのが子だけだということだ。まぁ、そんなことはどうでも良いのだが。

家族のお土産を食べながら、少し久しぶりに話をした。たまに何かあるときに連絡は取り合っているけれど、顔を見ながら話すのは1か月ぶりくらいだろうか。二人で会うと必ずピーチクパーチク、お互いのことをただ話す。本当にバカみたいなテンションで、下らないことをしゃべり続けるのだ。そんな中、最近ずっと書いていなかったブログについて、書き始めたら変化があったことを伝えると、家族は「最近、ネットの投稿された小説でもそうなんだよ。」と言う。

ここ数日、自分がこのブログを書書き終わると、「あー、また長くなってしまった。こんな戯言の長い文章なんて、誰も読まないよな。えいっ!」とボタンを押していた。自分の書き連ねた文字を見ると、ただ思いついてそのまま書いているだけなので、何の足しにもならないし、役に立つ情報でもない。自分でもほんの少し脱字等について読み返しをするときにざっと見て、直すよう集中するよりも、今は手を抜くようになっている。どうしたって、文字ばっかり詰まっていて、見にくくて醜くて、うっと来るものがあるのだから。それなのにだ。なぜか、この長文の駄文を読む人が増えているようなのだ。

今までは昼休みとか夕方とか、暇なひと時にちょっと他人のブログを覗く程度で読んでいる人が集中していたようで、他はまばらだった。だから、そういう時間に読む人がいたのだな、と想像がついた。ここ数日は、24時間バラけているのだ。いろんな時間帯に人がブログを見に来ている。多少集中する時間帯は以前と変わらないのだが、夜型~とか朝型~の人等の区分がある訳ではなくて、自分では想像がつかないほどに分散している。タイトルで引っ張られて来るような、万民受けするようなもの書いているわけでもないのだが、何か引っかかるものがあったのだろうか。・・・等々。

家族からの話によると、「短い文章はコスパが悪いらしい」ということ。どうせ時間を遣って読むなら、短い文章を読むより長い文章を読むことを選択をしている人が増えているとの話。だから、長い文章を読みたいと欲する人が多くなって来たから、意外とそんな駄文でも読もうとするんじゃないか、とのことだった。は~。面白いねぇ。世の中は変わって行くんだ。自分のブログになぜ引っかかって人が読みに来たか実際のところはわからないけれど、需要も変わって行くのだろうな。

そんなこともあって、夜にふと読書をしながら今の若い世代のことを思った。「コスパ重視」ということを本当に多くの人が思っているのなら、読書をする人はこれから増えるだろう。音声や動画でどんなに早回しして情報を得ようとする動作よりも、どうしたって読書して吸収する速度の方が早いのだ。本の内容にもよるが、頭の中で文字を読んで理解して、自分で作成した映像を広げ、音楽を奏で、香りや空気までも作り出せる。出て来る登場人物だって自分好みだ。その上考えて感想を持ったり様々なことを同時にしながら、想像の翼をどこまでも自由に広げて、その世界にどっぷり浸かることが出来るのだ。しかも誰にも邪魔されず、誰にも盗まれないしね。こんな場所は世界中どこにもなくて、自分の中にしかないところがいい。へへへ、いーだろう?って、気がつく人が多くなるんじゃないだろうか。

ちょっと話は違うかもしれないが、簡略化された概要や情報をただひたすらコピーするかのように得たものは、ただの知識だ。社会の中でそれが必要な時はあっても、活用出来る時間は短い。その時間の方が自分は無駄を感じてしまう。頭の中で何をたくさん感じたかとか想像したかとか、一見無駄に迷走している頭の中の方が、広く深く使えている気がする。あっちこっちへと思いついて、とっ散らかって、自分らしい遠回りをどれだけしたのかが、自分なりに考えた深みというものになるんじゃないだろうか。頭の中身を比べることは出来ないが、薄っぺらい知識だけ羅列されても面白くないと感じるのはそういうことかもな。小説だって、あらすじ聞いて「ハイ、こんな結末でした~。」ということを聞いても、面白くないだろう。読み進めたその時々に感じる自分の中の心の変化が伴ってこそ面白いはずだ。そうだろう?

と、ここまで書いて来て、お昼ご飯が食べたくなった。今日も駄文をお読み下さりありがとうございました。では今日はこのへんで。