ただ生きているって、結構贅沢。

10月もそろそろ終わる。一階と二階の間の屋根の工事をしてもらうことになった。今職人さんが屋根の上に上って、古い屋根をはがしている音がする。職人さんの積み重ねて来た技術を駆使して、この古い家に手が入れられている。自分では出来ないことをやってくれている。人に物を頼むということは、お任せするということは、自分が出来ない理由があって、お願いしているということだ。だからこそ、それに見合った高額のお金を渡すことになるのは当然のこと。それなのに、何でもかんでも人に任せていながら「高過ぎる」「サービスしろ」と言うのはおかしな話だ。自分が相手に「金額が払えないほど高い」と言うときは、その仕事を自分が人にお金を出してやってもらうという身分にすでにないのかもしれない。自分の身の程を知らずに人に何かをやってもらおうなんて、横柄だ。もっと自分自身の価値をよく見ておかないとなぁと思う。

出す金額は妥当なのか?と考えたとき、金額が一時的に高額になるのだけれど、ただ高価な物となるのか、長い目で見たら安上がりなの物なのかが判断基準になる。自分にとっては暮らして行くために出す費用として、結果的に安価だなと思ったので、それならばと工事に踏み切った。もし、それでも生活を圧迫するのが予想されて、もう数年を待たずに手放して行く方がいい場合だったら、お金を一切かけないという選択もあるだろうな。

とは言え、物価が全体的に上昇中の現在、安く手に入れられる必需品が減って来たと感じられるのは事実。もしかしたら、自分は安価な物が簡単に誰でも手に入れられた時代を生きてしまったばっかりに、それが今の自分の生活水準を維持する基準になってしまったのかもしれない。当たり前に手にしていた物は本当なら当たり前じゃないはずで、手が届かなくなってから気が付くものだ。いつまでも手にするためには、自分の生活水準を維持するために、たくさん働くことになる。要は今よりも稼ぐということ。出来るなら、あまりたくさん働かない時間を維持したい自分がいるので、今まで容易く手に入れていた物を手に入れない又は手放して行く時期に来たのかもしれないなと思う。まぁ、身分不相応に今までの生活水準を維持しようとしないことだな。

よく「食べて行くのが精一杯」という言葉を、生きていて悲惨な状況だという意味で聞くことがある。え?それではだめなのか?と思う。自分は食べて行けたら御の字だと思ってしまうのだが。その言葉をどこかで聞く度に、きっと夢や希望がたくさんあって、人生の目標みたいなものがキラキラしているんだな、やりたいことがたくさんあるんだなぁ・・・と感じる。今の時代は頑張っても自身の理想通りには上手く行かないと本人が思ってしまうだけで、生活保護も申請すれば食うに困らない程度は生活出来るのだけれど、そんな生活だけでは嫌だ、と思う人が多いのかなと自分は思う。病気や嗜好等でお金の遣い方が上手く出来なくて、生活が破綻して困窮して「食えない」という人たちと会って自分が思うのは、食べて生活は出来るのに、みんなそれ以上の生活が出来ないと「生活が苦しい」「貧しい」と思うのだろうなぁと度々思った。一体今まで生きて来てどんな良い暮らしをして来たのだろうと思ってしまう。何だかとても贅沢な人が多いのだなぁと感じてしまうよ。相対的貧困というのは自分から見るとどこか贅沢な気がしてしまうんだよなぁ。それだけ、今の日本がとても恵まれているってことなんだろう。きっといいことなんだろう、とは思う。だけれど、ちょっと気になるなぁ。

まぁ、だから自分は、働くことをあまりしない分、その生活が身分不相応にならないよう食べることを中心にして、便利さや装飾等娯楽も含めた生活の水準を落として行くことに努めている。意外と贅沢なんだよな、自分は。たぶん、あらゆる贅沢を持っていることにまだたくさん気が付いていないのだ。これ、ブログを書ける環境があるということは、かなり贅沢品を持っていることになる。違うのか?違わないよな。いつかこれを削る日も来るだろう。その時、自分の楽しみを持っているかどうかはわからない。でも、今はまだまだ削ることが出来るな。あれ?自分はどこへ向かっているのだ?

では今日はこのへんで。