遊んでいない人は誰ですか?

曜日が分からない日々が続く。今日は家族が新しい自転車を買ったので、取りに行って朝から家にいない。静かになった。だから家族がいる時間はブログを書くことなど出来ない・・・などということはないが、人が一緒に暮らしているということは、自分の視線や耳、口等の体が人に向けて集中しているということになる。人と一緒にいる間は、余程区切りをつけないと、ダラダラと遊び呆けてしまう自分がいる。書いていないからと言って、「もう書かないのか」と言われたら、そんなこともない。人に向かう時間に飽きが来たら、自分に向かって集中して書くのだろうと思う。どちらかにしか向き合うことが出来ない性分なのだろうと思う。

何かをやり続けている人で、人と自分との時間を上手く使えている人を知らない。どこかで人とは区切りをつけて、自分自身と向き合っている時間が多くある。人付き合いが悪いよな、とまでは言われないけれど、一人で何かを黙々とやっているので他人を寄せ付けない時間があって、その時間が一日を占めていた。家族がいたら尚更で、子供の面倒など見る時間は少なくて、恋人といる時間もほとんどなくて。周りはそんな人たちばかりだ。

自分がこうやって遊び呆けている間にも、ふと「ああ、あの人はきっとあれをやっているのだな。」と思うのだ。例えば演奏家として生きている人は、きっとこの時間曲に向き合い練習をやっているだろうと思うし、物を教える仕事をしている人は自分の学びをどう伝えるか苦心しているだろうと思う。ケーキ屋の店主だって、自分が朝寝坊している間に、人に売る菓子の仕込みを済ませているのは確実。好きなアーティストだって、ライブが終わった後も一人曲作りに取り組んでいるだろう。スポーツ選手だって、試合までの間に鍛錬しているものだ。自分が誰かと遊んでいる間に、誰かが一人で何かに取り組んでいることを感じる。

まぁ、自分は誰か人がいたら遊び呆けているというのが人生の中でやっていたいことなのだから、仕方が無いのだけれども、自分の中に磨かれて積まれて、築かれて行くものがあるのかなぁと思う瞬間があるのは確かである。社会に還元するにはそぐわないようなものばかりかもしれない。目に見えない、形の無いものが自分の中に刻まれている。ただそれだけだ。

とは言え、自分はただそれを選んで生きている。遊び呆けている、と書いたが、何かに一生懸命に取り組んでいる誰かも、結局は自分の好きなことに向かって遊び呆けているのと同じであると思う。今の自分と違うのは、結果的にそれが社会の中で役に立つものと思われることになったというだけである。その時代、そのときの価値観で、役に立っているねと「思われること」をやっているか否かの違い。自分のやっていることはこの先どう価値観が変わって、どう評価されるかわからないが、そうやって今すぐ社会の役に立つかどうかは置いておいて、自分はほんの少し気にしながらも自分の好きなことをやり続けて行くのみである。

今日も近場で祭りがある。花火が上がるようだ。家族と午後から出かける。その前に実家に頼まれた買い物をして、年金を下して届けてこよう。では今日はこのへんで。