働き過ぎの世の中が目に映るのに、自分自身は働き足りてないなって思う。

自宅で庭仕事。先日実家の庭の金木犀が大きくなったので小さく切ったときに、「年を取ると出来なくなることが目に見えているのだから、手に負える範囲で植物を育てないと。」と親に言った自分の言葉が胸に残っていたので、自分の庭も手間がかからないように大きく育ち過ぎたアボカドの木を2本切ることにした。

今、切るのは簡単である。けれど、これから先いつか枝の重さに耐えられない自分がいるかもしれないことを考えて、自分の背よりも低く切ることに決めた。ゆさゆさと風に揺れているのを見ているのは好きだったが、自分の手に負えなくなるのが分かっているものをそのままにしない方が良い年齢になって来たことを自覚している。

これから自分の時間をどう遣いたいかを考えて、庭の中で手間をかけたいものだけを残して行く作業をしている。隣近所がある暮らしをしているので、草ボーボーで木が倒れていてもいい生活ではないよな。雑草と呼ばれる草を刈り取り、地面を踏む。刈り取った雑草で地表の日差しを遮ることで、土の渇きや新しい雑草の生育を阻むようにしている。集めてゴミに出すなどビニール袋がもったいない。多少の日差しで抜いた草はすぐにカラカラになるし、虫がある程度隠れる居場所を作らないと、家の暗がりに入られてしまう。住居内に侵入されるのを防ぐ目的もある。樹木の下に置いて完了。

一時間ほどで剪定やら掃除を適当に済ましたが、ほんのちょっと働いた気分になった。街の中で暮らすのだから、自分だけ気にしなくて良いよという状態ではない。働いた気分になったのは、他の誰かのために何かをしたことと同じであると感じるからだろう。

ところで、この「働く」とは何だろうと思い返している。他人の役に立つことでお金を頂く行為だけではないよな。暮らしをタイトにして、お金を稼ぐ行為を減らし、人と付き合って、最小限のお金を遣って生活をしている人たちがいる。小さい頃からそんな人たちの真似をして、多少は稼がなくても暮らしていける程度の生活を自分はしているような気もするが、結局のところ何かを得るために誰かへ向けて労働をすることは必須なのだなぁと、ここへ来て思う。

お金を稼ぐ仕事というものでなくても、働くとか、労働とか適当な言い方はわからないが、何か自分が動くことで心地良い人間関係を作ることだったり、自分はどういう人なのかという安心感を他人に知ってもらう行為であったりするのは確かだなと思う。そういう行為にお金が絡んで、何だか少し嫌な気分になったり、そもそも労働に対するお金が十分ではなくて、足りなくて生活が出来ないということも生ずる。お金だけではなく必要な何らかを得られる、ちょうどいい適正な働き方というものが誰にでも見つかればいいよなぁ。

・・・って、人の中で自分が生きるために当然のことだと思うのだが、その当然が意外と見当たらなくて手に入れられず、ずっとみんな困っているよな。そうだ、そうなんだ。自分はそこからの理解なのだ。自分にとっての十分や適当というものが見えていないクセに、今は生活して生きていられているというのは、とても贅沢であると感じている。何もしていないのに、余分なものを得ている感じがするのだ。きっと今の自分は働き足りていないのかもしれないな。もう少し動くかな。人間って不思議な生き物だ。いや、自分か。

では今日はこのへんで。