元気とか健康というものは絶対評価ではなく相対評価だ

ちょっとぐったりしていた。家族が帰宅したこともあって、常に隣にいる生き物が音を出すので静かにならないことも疲れる原因だが、やらなきゃ行けない予定と遊びの予定が詰まっていることに加え、季節の変わり目の空気によって喘息が少し出ていて咳が出ていた。ほんの少しいつもと違う頭痛の後、喘息の酸欠なのだなと気が付いたのが遅かった。薬を飲み始めて数日後、咳が残っていてもほんの少しとなり、外に出て道を歩くのが辛くなくなった。でも、ちょっと無理をしてしまったようだ。無理をしつつ予定をこなして今週が終わる。ああ、もったいない日々。やってしまったなぁ。どうせなら楽しい予定ばかりだったら良かったのに。

無理なら止めれば、と言われることもある。けれど、そうではないのだ。常に無理をしないと何事も進まないのだ。ちょっと無理をしていることが普通である人が、健康というものを普通に手にしている人に理解してもらうことが難しい。無理をしないと決めると全部の予定がキャンセルになるだろう。予定を推し進めるか止めるかという点で結構難しい判断になる。

まぁ、無理をしないというのは大事なことなのであるが、楽しいやりたいなぁと思うことを止めるということがとても難しい。「じゃあ、元気になったときに。」とも言われるが、人に言えるほど元気だという時期は一年の中でほんの少しである。いつになったらそれが出来ると言えないのである。予定は空いても、体の予定が定かではないのだ。だから大体の予定はちょっと無理をしていて、その通りに過ごしてしまう。昨年はそれでもかなり元気に過ごせたなぁと思うのだが。

実際、呼吸をまったく気にしないでいられる時期はほんのわずかで、薬を飲んでいたら平気だなと思う日もあるが、加えて副作用が出てそちらが辛い日もあるのだ。歩いていて呼吸が気になることがない、鼻歌が出る、眠るとき横になって息苦しくない、そういうときがたぶん自分の中の元気な状態なのだと思うのだが、そういう状態の方が少なくて、常にどこかで気になっていることの方が多いのだ。

飲み薬は飲まない時期と飲んでいる時期でかなり違う。副作用は指先が震えるような感じで動作の感覚が鈍くなり、常に体がいちいち動きづらい。好きなピアノが弾きにくくなる。歌は少し歌いやすくなるんだけれどネ。でも飲んでいるときは元々咳が出やすいときだから、息を大きく吸ったり吐いたり出来ないし、息苦しい状態に変わりない。真面目に大きな声を出して歌の練習が出来なくなる。無口になるし、話す声も小さくなる。笑わない。歌は歌わなくなる。だから、無意識に鼻歌が出て来たら回復の兆しで、自分が元気になって来たのだなと思う瞬間だ。

花粉症等のアレルギーの薬ならば自分の外側がぼやーっとした感覚になるが、喘息の薬は内側にぼやーっとした感覚になるという違いもある。この「ぼやーっ」とした感覚は、やる気がなくなるねぇ。その反対に「ぼやーっ」とした感覚が過ぎて薬が抜けて来ると、覚醒してしまう感じになる。たぶん、体の中で鈍くなったものを無理に動かす力を出していた感覚のままで、ぶんぶんと勢いつけて振り切ってそのまま動いてしまうからだと思う。重しが無くなったせいで勢い余って飛び出してしまうみたいな感じだ。体の感覚が元に戻るとか気にならない感じになるとか、そこまで行くには時間がかかっている。反動がついた動作の感覚が暫く続き、違和感がある体を持って動いているという時期が長い。何も気にしないで過ごせるというのはなんて健康なのだろうと思う(けして健康なときは無意識だから、健康だとは思わないのだけれど)。

ダラダラと辛い状態を書いてしまったが、ともかく、ほんの少し息苦しい自覚があるときに遊びに誘われると、無理していることの程度がいろいろで、今回これを断ると次に行くとき今よりも元気である保証は無いよな?と思って、結局は出かけて行くことになるのだ。面白いこと、役に立つこと、ドキドキすることに対して、体のことを構わず急にダッシュをして楽しんで来てしまう。それでぐったりした今の自分が出来上がる。そしてまた振り出しに戻って一から始める。懲りないね~。

これって、ひどい発作が起きていないというだけで、もしかしたら自分は元気であると勘違いしているのかもしれないなぁ。でも、これが自分の普通で元気なときなのだろう。今日は家族が旅行でいないこともあって、家が静かだ。気も休まるし、体も休められる。ブログも書いている。今はきっと元気だ。明日は?わかんないけどネ。

では今日はこのへんで。