どんなにたくさん学んでいて詳しくなっても自分が知らないことがあるのだ、と思って調べることを怠らないで翻訳することが大切というような話を言っていたのがベテランの翻訳家の方だった。慢心勿れ、って言葉が勝手に作られて自分の頭の中に響いた。日本人に生まれて、どれだけ日本語が上手くなったとしても、人との間で交わす言葉が増えたとしても、他人と理解し合うことはとても難しい。さらに、日本語ではない言葉を駆使して伝え合うことや理解することなど、自分に出来るわけがない。日本語でさえ、わかったつもりでいることがどれだけ多いことだろう。英語に関する本を読んでいて、いつまで経っても理解が乏しい自分に対して不満だったが、「わかる」なんてことはあり得ないのかと思ったら、とても気が楽になった。学ぶのは、ずーっとなんだな。
たぶん、何事においても自分がわかったつもりになっているだけなのだから、常にずっと理解して行こうという気持ちを持ち続けることが必要で当然のことなのだろう。一時の理解はあったと思っても、今いる自分のわかっている情報の中での理解でしかない。自分の中の正しさを疑い、常に少しでも広く深く見て知ろうとすることが、限りなく相手の考えていることに近くなり理解する唯一の方法なのかもしれないな。相手を「こういうもの」だろうと簡単に見当をつけてしまっていることも多いのだ。
普段、自分はどれだけ相手のことを理解しているのだろう。一時的な一点だけを見て印象を決めて付き合ってしまうことの、なんと多いことか。それで適度に付き合っている人も確かに多くて、その程度の付き合いでも人との間では円滑でもちろんいいのだろうけれど、そうやって用を済ますばかりでは、本来のその人の理解は深まっていないよな。
確実に若いときよりも理解しようとする相手が自分の中で減っていると思う。どこかで本当に面倒になってしまったのかもしれない。自分が壊れるほどの理解をしなくなったと思う。誰かに対して「ここまでね」と線を引き、頭が固くなったとか大人の距離感で付き合うようになったとか、それはそれでいいのかもしれないが、人と会っているのに魂が揺さぶり続けられるようなことはもう無いのかな~と最近は感じている。
自分というものと人との間でバランスが取れているという関係は、良い反面、自分からの興味が断然失せているなぁと思う。普通に生活が出来ているというのは、もしかすると自分は人に興味を持たないように気をつけているのかもしれない。淡々とする生活は心身の安全と心の穏やかな自由が守られているが、そのために人の面白みをわざと避けているところが大いにあると思う。
今の自分は、理解しているという慢心という意味ではわざと自らさっさと慢心して、それ以上の理解を止めているような感じだ。十分今までたくさん傷ついたから自分を守るようにして生きているのか?心が揺れないよう、理解したい欲求と興味が広がって暴走しないよう、堰き止めているのだろうか。そうだとしたら、きっとワクワクドキドキなんて起こり得ないよな~。まぁ、これも自分次第か。
では今日はこのへんで。