努力すれば報われるかどうかは知らないが、努力をすることを惜しまないでいたら得られる心地良さは知っている。何をするにしても、今の時代は情報が多いせいで、いくらでもどこまでも何かや誰かと比べられていて、当然のようにその結果の未来の答えさえ簡単に出されていたりして、つまらないなぁと思う。
かなりのご高齢になってからいきなり独学でチェロを始めた作家の人が言っていた楽しみが、今なら何となくわかる気がする。誰かに習うんじゃない、単に上手くなるなんてこととも違って、自分でやることが楽しい。敷かれた近道に沿ってばかり進むことが人生の楽しみでもないよなぁ。
その先に手に入れられるとわかるようなものに、自分は興味がどれだけ湧くのだろう。自分で決めたのなら向かうことが楽しいし、興味も続くのか?どこへ向かうのかわからない、方法もわからない。手当たり次第にやってみようと思ってやってみた方が面白いなぁと感じる。これとあれをやれば目的地に簡単に辿り着くよ、と思うことがたくさんあって、「自分なりに」という余白が少な過ぎてつまらないのだ。
だからなのか、努力していても他の人から見たらなんで無駄なことをやっているのだろう?と思われることもあるのだろうなぁ。とにかく速いことを、結果を、みたいなことを望んでいる社会の中で、滅茶苦茶じわじわと遠回りをする自分に呆れる人もいるのだろうなと思うが、そうやって自分なりの道を進み、たくさん疲れるのが自分なのだなと思う。じわじわゆっくり、今日も生活している。努力が報われないうちに死んじゃうかもよ、とも思うがまぁそれはそれでいいじゃないか。どうせ人生は誰でもいつでも途中で終わりが来るのだから。
さて、昨日書いた親についての問題は、ぐぐぐーっと、ちょっと横に置いておく。いつだって「とんでもないこと」と思う出来事が起きたとしても、自分がその場でやれることは常に変わって来るのだ。少し先の数年後位の未来を考えてしまうと、問題に直面する事態になるのはわかっているつもりではある。
ただ、自分がその問題に今すぐに総合的な解決策に対して動いて行くのと、今の段階で出来る解決策は違うのだろうと思うのだ。心配性だからどうしても先のことを見てしまう自分に気が付いた。親が言っているような今だけの解決というのも良いのかもしれないなと思う。自分だったらこうするけれど、親だったらこういうやり方で今回はいい、ということもあるのだ。
積もり積もって・・・ということはあるけれど、実際にそのときに直面するのは自分ではない。今も直面していて解決しなくてはならないのは親自身とキョウダイである。どうしても家族であると自分のことのように考えてしまうけれど、親子の問題も実のところ、自分ではない別の人の人生である。自分のことのように何かをやってしまいたくなるけれど、それでは相手の人生を自分が乗っ取ってしまうようなものだ。意見が違ったときに、自分からの提案はしても、決めるのは自身である。
同じように、相手が自分にやって欲しいと言ったことに対しても、自分が出来る出来ないをしっかり返すことだ。当然にとか、やらなきゃいけないということではない。親が完ぺきではないように、自分も完ぺきではないのだよ。
してあげたいけれど、実際には出来ないことの方が多いものだと思う。してあげたい、したくない、出来る、出来ない。どんなふうに自分が判断しても、どの思いに対しても優劣もない。恐らく、またこの先親にとっては苦しい生活が続くだろうと思うが、それを自分は、その姿を見る苦しさを受け取る方を選ぶことになるかと思う。それもひとつの「親にはこうして欲しい」という厳しい自分の欲望なのかもしれないなぁ。自分も嫌な思いをするつもりである、ってとても変だけれど、今はそんな気持ちでいる。苦しさを共有する程度の優しさ、か。違うか。
では今日はこのへんで。