朝起きて、それを愛と呼んだ。

あれが愛と呼ぶものなのだろうか。目が覚めたときに、なぜか昔のことを思い出すことが多い。年齢のせいなのだろうか。自分が20代前後の頃に感じた思いが何だったのだろうと思ってしまう。自分の人生の中で名をつけるなら、きっと愛だったのだろう。朝っぱらから、しかも目覚めたときに、急いでわざわざ名をつけなくてもいいのだが、あの若い頃の自分の中の感情やそれに伴う行動やらがこの先ないだろうなぁ~なんて思いながら、名をつけてしまっていた。

そういう愛が今はないから、気楽である。親子との愛があるとしても、友達との愛があるとしても、今朝起きて名前をつけた愛は別の種類の愛なのだ。どこかでその愛を愛と呼ぶことをためらっていたのは、今どの相手の人とも別れているからかもしれない。別れた人たちに対して愛があったなんて、認めたくなかったのだろうと思う。けれど、最近になって、少しずつ整理がついて消化して、きっちりと明確な思い出になり、今の自分からやっとその時期の自分を切り離せたことによって、名をつけられるまでになったのかなぁと思う。誰かとのお別れは、その時期生きていた自分自身とのお別れであるのだろう。あの頃の自分ではない、と思える自分が今いるからこそ出来るんじゃないだろうか。きっとそうだ。まったく。ふぅ。心の整理に時間がとても長くかかる奴なんだな~。

たくさん苦い思いもしているはずだが、それと共に甘い思いもしていたことを今は認められる。人生の中でいろんな思いをして来た自分がいて、だからどうかと言ったら、吹き出してしまうような思い出が結構あるということは、人生の後半で愛と呼べるような新しい出会いが無かったとしても十分楽しめるってことかなと思う。全部思い出している間に自分の人生が終わるわけだし。だって、50年以上生きているのだから。単純に100歳超える。生きているかわからない。リアルにひとつひとつ思い出して行ったら、生きている時間をすべて遣うには十分だろう。もう要らないかもな。

要らない、と書いているけれど、あったらあったできっと楽しいだろうとも思う。まだ出会いが無いと諦める年齢でもない。昔と同じような状況や自分自身ではないから、きっと今の自分が全く思い描けないくらい新鮮な関係になるんだろうと思う。今まで経験したことがないものになるはずだ。同じような愛に出会って「また、同じなのか。」と思って繰り返すのではなく、すべてが新しいのだ。そう思うと楽しみだ。それをまた愛と呼ぶかどうかは、それこそずっと先のことである。こんなペースの自分だと生きているかわからん。

お腹が空いて来た。買い物に行かねば。短いけれど、今日はこのへんで。