庭の沈丁花が折れた。強い風にあたっていて、根こそぎ引っこ抜かれたなぁと思っていたら、その後プロパンガス屋さんのガス交換で倒れかかっていた沈丁花を横に避けたときに根っこがどうやら折れたらしい。普段はかなり柔軟性がある植物だったから、多少動かしても問題がないだろうと思って、そのまま放って置いてしまったのだけれど、どうやら動かした向きが悪かったみたいで、花をつけていた全体がシュンとしおれたように元気がなくなってしまっていた。
今朝ちゃんと見てみようとそばに行ったら、根っこが互いに絡まって巻いて露出していた。戻そうにも枝が重すぎてバランスを失い、根っこがさらに折れるようだ。仕方がないので、元気が無くなった花の部分はすべて切り取り、水の張ったバケツに放り込んだ。小さく折れてしまった花の枝はまとめて花瓶として使っているビールジョッキに入れた。ふう。
花を置いた洗面台と風呂場に沈丁花の香りが漂っている。摘んだその花たちはいつか枯れてしまうだろうけれど、根っこは周りの土を被せて来た。乾燥している土ばかりだけれど、無いよりマシだろう。多少大きくなり過ぎたこともあって、折れやすくなっていたのも確かだ。小さくこんもりとした土の丘が出来た。日陰からどうしても太陽の方へ大きく伸びてしまって、不安定な形になっていた。今後は常に大きくせず、少し小さ目に剪定しよう。挿し木で残した枝は他の土の入ったバケツに入れてある。小さく育てる方が長く楽しめるかもしれないな。
手をかけないで自然のままに、というのは町の中では難しい。強風で折れたり、勝手な方向へ広がり過ぎたり。太陽を追って、常に不思議な形に伸びてしまう。自分のような感じで野放しの植物を愛でたい人にとっては、人が住む町で暮らしている限り、自然にというのは無謀なことなのだろう。自分自身も植物に手間をかけられるか、かけたいのかわからない。少しずつ年齢も上がって体力を使う手間と植物の自由さを考えたら、種類も減らしていくしかないだろうなと思う。
ちょうどというのはおかしいかもしれないが、柿の木が傷んで来ている。いつも美味しい柿の実を付けてくれる木。自分のわがままな剪定にも耐え、それでも町内の皆さんに配れるほどの実の数をつけてくれている。けれど、あちこち節が傷んでいて、木の皮が黒ずんでいるところが増え、こぼれるような表皮のところが増えた。
それに、どうしても日当たりのいい共同の私道のところへ伸びてしまって、気持ちとは相反して、丈夫で元気な枝を切らざるを得ない。ごめんなと言いながら切る。もしかしたら、木は見かけよりも気力で生きているんだろう。古いこの家と共に朽ちるタイミングを考えているような気がするなぁ。それら木の寿命は人間より長いと思うが、うちの木は自分と同じくらいかもしれないと感じる。わがままだが、まだ一緒に生きていて欲しいなぁ。
今年は梅の木が花をたくさん咲かせている。近くで顔を寄せているときやそばにいるときはあまり香らないのに、歩いて通り過ぎたときに香るのはなぜだろうね。香りが追いかけて来る。植物は動かないというから、動くものへ自分の願いや次の世代への期待を乗せようとするのだろうか。本体は動かないでじっとこちらを見ているのかもしれないな。今日も香りに捕まれた。香りに包まれたら、それは捕まったのだと思う。すごいな、植物。
では今日はこのへんで。