気持ち良さそうな物でも、自分の手で触らないとその気持ち良さだってわからない。

高齢者の食事会の手伝いに行った。いつもお茶請けを手作りで提供して下さる同じボランティアのご婦人がいて、休憩時間に食べながら一緒に寛ぐ。黒豆や漬け物、後は買って来たと言っていたチョコレート数種類。旦那様が昨年夏に急に亡くなり、一人で寂しそうにしていたのも束の間、「ネットでね。」と契約した動画配信サービスの話題で今日は興奮気味。ずっと観ちゃうの!と、その話をしたいが同年代では話が通じないからと今日は誰か見ているかな?と話を振って来たようだ。

自分も見ているので共通の話題として相づちを打っているだけだったが、こんな時間が人には大切なんだよなと、一人暮らしに慣れて来たせいか、自分でも思う。同じ話題で一緒に話したり聞いたりするだけなのだが、そういうことが出来る相手がすぐそばにいないと話を振ることも出来ない。共感するのを必要としているわけじゃなくて、日々のくだらないことにただ「そうなんだ。」=(あなたはそう思ったんだね)と言ってくれる相手がいることがいいのだ。ただただ常に自分の思いを受け止めてくれる相手。いるだけでほんわりとした気分になるのだ。

自分も家で一人でこもってばかりいると、下らなそうないくつもの思いがどこへ行くともなく自分の中に積もって行く。もう忘れてしまったこともある。思っていることを誰かに伝えられるというのは、自分がそのとき生きていた、みたいなものである。自分自身が「生きているよね~。」と生存確認しているような感じだ。人の中でしか、自分自身の現実感というものを得られないものなのかもしれないなぁ。だから自分は人と会うのはやめられないなと思うし、他の人にも人と会うのをやめないで欲しいなと思う。

話は少し違うのだが、「触れる」というのを極端に避けるように生活が回っているなぁと思う。人と人との直接の触れ合いもコロナでかなり激減したが、人と人の間だけではなく、自分で家の中でいろんなものを「出来るだけ触らない」でいることに気が付いた。ネットやテレビの画面は触らないで光る映像を見ているだけ。自分の家では違うが、生活の中でスイッチも触れずに声で指示を出すことも出来るようになっているようだ。お皿を洗うことでさえ、手を使わない。お風呂も食器も服も、洗剤をつけるだけで水を流して落としたり、電化製品を使って極力触らずに使える状態に仕上げられる。部屋に落ちているゴミだって直接その物に触らず、掃除機で吸い込んでしまう(自動でやってもらうこともあるよね)。後で片付けなければならないが、殺虫剤を使えば直接触れずに虫も殺せる。地面に足をつけずに車等に乗り、行き来が出来るし、何もしなくてもドアが開閉する店ばかり増えた。食べ物を舌で味わったり香りを鼻から吸い込んだり、歯で噛むことなどをせずに、飲み込むだけの栄養剤を摂取もしている人も多い。買い物もネットで目で見ただけで買っている。まぁ、列挙したことについて、自分はほとんど経験無いのだけれどね。思い当たる人はたくさんいると思う。

きっかけは少し汚れた洗面台の排水口を見ていたときだった。自分がその汚れを見ていて、触りたくないから少しの間放って置いてしまった。この「触りたくない」は汚い物に対して起こる感情だと思うが、見ているだけだと見えている物がどうなっているのかまではわからない。結局、捨てる予定の紙切れを丸めて擦ってみた。汚いと思って、直接触らない自分がいる。けれど、それでも物を介して触っている。紙の上から触った感触から、擦れば落ちるなと思った。目で見ていないのに、紙越しで、こんなに敏感に手で触ってわかるんだよ。すごいよなぁ、この感覚は。

けれど、いつか人間はこの感覚を失ってしまうかもなぁとも思ったのだ。触った感覚をきっと「汚い」とか「気持ち悪い」とか、まるで悪のように思うのは時間の問題のような気がした。

では今日はこのへんで。