普段から何か心に留めたとき、ふと気が付いたときにメモを取っている。今日もたまたま見た画面の中に見つけた。「すべてを手に入れることは出来るけれど一度には出来ない」という言葉。そうだろうなぁ、そうだよなぁと思う。そして書き込む。
そのついでに以前メモしておいた言葉を読む。アインシュタインの言葉。「狂気。それは同じことを繰り返しながら違う結果を望むこと。」、だそうだ。意外とやっていることが多いのではないだろうか。大抵のことは同じことをやっていると同じ結果が出るものだが、そうでもないこともあるからその通り!とは言えないが、確かに違う結果を求めているのなら何か小さなことでも良いから違うことを始めて行く方がいいだろう。そんな感じで後日さらに納得することもある。
「諦めるは明らかにするという意味がある。」というのもあった。何かをしっかりわかったら、諦めるってことに到達するはずだよなぁ。中途半端にわかったつもりにならずに、とことんやって、全てが自分の中で解明された状態になれば心から諦められるというものだろう。そこまでやらないと物事なんて諦められないよなぁ。
他にも、「意地悪だけど意地悪しない」ということも書いてある。例えば「きっと自分は殺人鬼だ」と自覚していたとしても、殺人を一度も犯さなければ殺人鬼とは認められないよなぁ。結局は中身がどうであれ、行動である。まぁ、そんなことがメモってある。
メモの効果はこういうふうに忘れた頃に見返して、過去の自分が未来の自分へ伝えたいことを伝えて行くものだ。未来の自分への手紙のようなもの。人は毎日何かを忘れて行く。目の前に映る物事に集中して生きてしまうから仕方のないことだ。だからメモをしていても、こうやって見返してみないと内容を忘れて行くし、メモしたことすら忘れていて、メモまでして伝えたいことがあった自分がいたことにも気が付かないでいる。
忘れてしまったことは、思い出せないのだ。それでいて、なぜか突然何かを思い出したりする変な生き物だ。どちらかというと、完全に忘れているというよりも、記憶はあるにもかかわらず、ずっと思い出そうとしないでいるから、思い出し方を思い出せなかったりするのだろう。
その証拠にメモした物を見ると、全てを忘れているということはほとんどなくて、文字や言葉で思い出せない感覚の記憶がよみがえって来たりすることもある。これを書いたときに何だか上手く言い表せないけれど、確かに何かを思って書いていたんだなと思う。その日、何もなかったわけではないのだな。ああ生きていたんだな、なんて思う。
でも、全くわからないものがいくつかある。数字だ。何の数字だったのかわからない。咄嗟にメモを取ったのだろう。このメモに残しておきたい理由もわからず、何を指し示しているのか今はさっぱりわからない。自分のわかる言葉で書いておけば良かった。とほほである。何かを見てメモしたはずである。車のナンバーかな?というのは少し思い出した数字もある。日頃から自分の説明の足りない部分が如実に出ている気がした。
このブログはどうであろうか。始めてから1年経とうとしている。過去の自分からの手紙が随分たまったという感じである。以前よりも書く頻度が減ったが、自分が書く理由がより明確になって来た気がしている。結局のところ、思ったことを声を出さずにいられないのである。自分の中に収めるなんてことはたぶん無理なのだろうな。発してナンボの自分である。
誰かに届かない声などない、文章を書くということはいつ届くか誰に届くかはわからないが、誰かに届いて行くものである。別に他人でなくてもいいのだが、今の自分ではない自分にも言っておきたいのだ。明日なのか昨日なのか、どこかの地点で生きている自分へ。それでもいいと思う。自分の中から飛び出て行くものがあるということを未だに面白がる自分がいる。過去の自分から何かを受け取っては枯渇せず、常に満タンで、何かしらとめどなく溢れて行くものについて、抱えきれずにダダ洩れだ。まだまだ、また書くかな~。
では今日はこのへんで。