早起きするということをしていない。冬になって、わざわざ暗いうちから起きて灯りをつけて、朝早くは寒いからと言って暖房をつける生活はなんか変だと思ってしまった。自分は時間に制約がほとんどないのにも関わらず、一年中同じ時間に起きて何かをするなんて、意味あるのだろうか?と最近思ったのだ。ゴミ回収車が来るまでの時間にはギリギリ起きてゴミ出しには行っている。合わせる時間はそれ位である。起きている時間と寝ている時間はなるべく変わらないようにしているが、季節の変化に従って昼間の温度や日照時間に合わせて生活して何の不都合があるのだろう。冬の間は睡眠が夏より長くなるものと聞いているし、そういう体調の変化に合わせて少し長く眠ったり、美味しい物が出回る季節には食べ、食欲がわかない季節は自然と量がセーブされるようなことでもいいんじゃないかなぁと。どこまでも人間って、自分たちが作った一定のルールに基づき過ぎて、何だか無理があるような気がする。眠い季節はよく眠り、食べたい季節はよく食べ、遊びたい気持ちには正直に遊ぶ、とか。出来る限りそうやって過ごしたいものである。
けれど、その「出来る限り」というものは厄介で、何だか「出来るんだから全部やれ」みたいな気分になる。反対に「出来る限りならば、ほとんど出来なくていい」みたいな気分も出て来る。結局自分で全部やっちゃえ、という時と、全部やらないな、という時の両極端が自分は多いなぁ。
昨日のボランティアの話でも、この出来る限りという言葉が曲者で、人によって出来ることは違うはずなのに、どこかしら自分たち独自の常識を持ち出して来ることになり、よくやる人が多い場所ではそれが基準になり、よくやらない人がいる場所ではそれも基準になる。集まった人たちがどういう人たちかで大きく左右される。集団というのは「出来る限り」という曖昧さが結構問題になるんだよなぁ。少なからず、自分も影響している訳なので、自分は自分のちょうど良い「出来る限り」というところを伝えて行くことは必要だ。日和見の匙加減などしないで、大体根本的に極端なのでどちらかに自分の意見はかなり傾いて発言する。だから他の人が何を言うかでほぼ決まる。流れでなんとなくの「出来る限り」の最低最高ラインが決まって、自分が窮屈になって来たら去っているような気がする。場について、自分は人任せなのだろうなぁ。
大多数の人が思っている基準について、馴染むより、「…そうなんだ。じゃあ、私は違うんで。」と去る。一緒だったら、ラッキー。その場に残る。そんなもんだなぁ。それでだ、今のこの世の中の流れを見ていて、常に巻き込まれたくないときは違う場所を自然と探しているのかもしれない。変えられないと思ってしまった大きな力については尚更かもなぁ。言わば、大きな力に対してオオカミの皮をピッチピチに綺麗に被った羊の様だ。オオカミの顔して、オオカミの居ない山をいつも探して生きているのかもしれない。友人から見たら、オオカミの皮を被った羊のような、ナニカが入っている、のかもしれないが。
さて、話は最初に戻る。暖かい眩しい日差しが差す頃に起きると、灯りも暖房もいらない。多少は寒いけれど、寒さに慄くようなタイミングと暗闇を避けられる。きっと夏は、暑いから何もしないだろう。だって、昼間の暑さと光にひどく疲れるから動きたくないもんネ。きっと明るい夜に動き出すことになるさ。そんな感じで出来る限り生きたいもんだ。夏休みや冬休みはどこへ行った?なんて効率の悪いことをヒトってやっているんだろう。ヒトじゃないナニカからは、笑われてるんだろうな。
では今日はこのへんで。