結局、想像力で生きている。

いかなるときにも相手に対して想像力が必要。自身の余裕とも言う。何かの出来事が起きる度に、反射的に自分の行動が続いて出てしまうことがあるが、そういうときこそ、自分の普段からの考えや物事に対しての想像力がどこまで働くかどうかが大事なのかなと思う。

昨日もブログで愚痴のような物を書いていたが、その前の晩は寝不足である。それで簡単に誰かへの配慮というものが欠落する。文字であっても同じでなのだ。書いたことで、外に出していい物なのかどうか、という自分の中のフィルターが弱い。フィルターもかからなければ、判断力も欠けている。まぁ、そういうものが働かず、さらけ出していることがほとんどなのだが、考えて出した言葉のその奥行きが表面的だなと思ってしまう。自分に甘いブログである。事情をここで書いて、どうなのだ?と言うと、昨日書いていた自分について何とも言えない感情を持ちながら書いている心を慰めているようなものかもしれない。

いや、昨日の自分のことだけでなく、目に入って来るニュースもそうだし、他人から聞いた話でもそうなのだが、何か人との間に起こった出来事というのは、自分側が受け取った事象というものをどれだけ広くて深い視点を持てるかで、感情的なぶつけ合いではなく、相手への配慮が変わり冷静でいられるなぁと思ったのだ。人は完全に同じものを見つめられない。けれど、想像力を働かせることは出来る。相手が見ている自分のことも含めて想像するのだ。

車の事故が起きた、としよう。相手の不注意で起こったのが事実だとしてみる。最初はたぶん自分は何も非が無いのに、なんてこった!巻き込みやがって!あー、どうしてくれるんだぁ!というような怒りと共に率直な言葉が自分の中に出て来る。けれど、相手の状況を知ってしまう。子どもが危篤で病院へ急いでいた、とか、自分が同情してしまうようなことがきっかけだったとしたら、自分の怒り狂った気持ちがふと少し緩んで行かないだろうか。相手に対して「大変だな」と思うことを聞いただけで、ほんの少しだが尖った感情が丸くなって行くような気がする。さらに話を聞いて、そのときの事情を知って行くと、あれだけカンカンに怒っていた自分がシュンとなる。事故を起こした罪は罪だとして、自分の感情はほんの少し柔らかになって冷静に考えて、それから動くのではないだろうかと思う。最終的な自分の答えは様々なのだけれどネ。

だからこそ、言葉にならない感情が瞬時に高ぶったときこそ、いろんなことを考えて想像してみる。別にすぐさまそのときにということだけでなく、出来なかったら後でもいいのだ。自分の感情を放って置かない。自分がなぜカチンと来たのかとか、モヤモヤしたのかとか、言葉になって形容しきれていないものを問うてみる。同じものを見て、人はそれぞれ違うことを考えるのだから、自分の想像力がそれ以上動かなくて働かないなら、他人に話をすれば意外な視点が返って来るものだ。人と話して、たくさんの余計なことを考えてみるといいのだよなぁと思う。

咄嗟にワワワーっと出て来る感情は誰にもでもあるし、ずっと沸々と腹の中で煮えたぎり続けることもあるだろう。それでも、ただ一瞬、見えている世界が少し広がるだけで、煮え方が変わる。雑味が増えて、温度が下がるような。ゆくゆくは煮えたぎる鍋が小さいと感じて、大きなものに変わって行く・・とか。大きな鍋は瞬時に温度も上がりにくそうだ。そうやって行って、他人に与える自分の尖った負の感情が少し減ると良いなと思う。

あれぇ?煮えたぎっているのが「はらわた」ではなく、私は鍋なのだな。腹の中の鍋。どこかの体の一部ではなく、別のモノ。なんだか自分自身について、言い得て妙で、腑に落ちた。書けば書くほどに自分を知ることになるねぇ。

では今日はこのへんで。