隣の浮き輪は大きく見える

朝から自分の親との関係を考えて絵を描いていた。とてもくだらない絵だ。人生を送っているであろう大海原が舞台で、適度に浮き輪を持ってチャプチャプしている図だ。自分は浮き輪に体を通して、それなりに安全にチャプチャプして浮かんでいる。足元には薄い簡易な船のようなものが見えるが乗っていない。そんなところに隣から親が来る。お腹の下に自分の倍以上の浮き輪をつけ、他にも上から二つの浮き輪と体を繋いでいるにもかかわらず、沈みかけているようで、必死に泳いで来る。そしてセリフは「助けて~」だ。自分は「え!?」と言っている。たぶんこの状態だと思う。親はたくさんの安全な浮き輪を備えているにもかかわらず、人に助けを求めている図である。たくさん備えている浮き輪があるというのに、さらに人の浮き輪を奪う勢いだ。まぁ、そんな感じで描いた絵が自分の感覚ではとてもしっくり来た。

なぜ親を見ていて自分は腹立つのだろうかと思って図を描いてみたのだ。もしかしたら、親に同じことを描かせたら、きっと浮き輪など持っていない図になるのだろう。周りの人がたくさんの浮き輪を持っているのに、自分は持っていないと思っているだろう。そして他人を見てうらやましがるのだ。実際には大きな船に乗っていて、水にも浸かっていないはずなのに。息が出来ないくらいに水に沈んでいる気持ちになっていることもあるのではなかろうかと想像する。

うーん、でももっと詳しく描いて行くと、親の浮き輪には自身で手に負えない程の数の猫や人が浮き輪にくっついているような感じだ。だから沈むのだろう。親はたくさん持っているはずの浮き輪ではすでに自分以外を支えられないことを気が付いていないか、もしくはそれを認められないでいるようだ。大きな浮き輪をおそらく猫や人に与えたことによって、自分の浮き輪が無くなっているけれど、さらにまだ大きな浮き輪を猫や人に与えようとしている状態である。

自分の浮き輪をすべて他人に与えるというのは、みんなが持っている自分の浮き輪を他の誰かにすべて渡すことでもしかしたら成り立つかもしれない。けれど、どこかの誰かでその循環がストップする。誰もが同じような浮き輪を持てるわけではないからだ。小さいサイズや元から持っていない人もいる。中には持たなくて伸び伸びしている人もいるだろうし、もっとがっちりした船に乗っているか、島を見つけて足をつけている人もいるかもしれない。いろんな人がいるはずだ。どこかの遠い場所で、自分ではない、他の誰かが浮き輪が無くて溺れる人が出て来るのではないかなぁ。目の前の何かを助けられて満足し、自分も誰かに浮き輪をもらって助けられたとする。でもどこかの誰かがそのせいで溺れてしまうとしたらどうなのだろう?目の前の溺れる者を助けられなかったという痛みを自分が抱えるか、他人に押し付けて自分の痛みを避けるか、または助けるために自分が溺れるか。親は自分で抱える痛みを避けているし、自ら溺れることなど選んではいない。そんなふうに見えてしまう。

自分が溺れてしまうのなら、最低限自分を生かすための浮き輪を人に渡さない方がいいのではないだろうかと思う。泳げたり、お互いで軽く浮き輪を持っている程度の力で済むならまだしも、こちらから見てその余力はもうすでに無い状態である。ほんの少し小さい浮き輪にして、人が持ち寄った小さな浮き輪が大きくなって、誰かを一時的に助けることは出来そうだとは思う。だがそれも一時的ならば出来ることだ。継続は難しい。何と言っても一人一個の浮き輪を保つことが難しいからだ。誰もが自分以外の一人分余計に保ち続けるというのはとても大変なことだと思う。精一杯努力した上で一人生きている人がほとんどだからだ。余力が増えてたくさんある人は別として、一人が自分一人分の浮き輪を保つよう努力することが大事なことだと自分は思っている。だからこそ、自分は自分のことくらいは生きられるよう努力するようにしているのだが、だが~。

こんな調子は続くだろう。自分の浮き輪を好きでどんどん周りに渡していい顔をして、その結果自分の浮き輪が無くなった、こちらに寄こせと言う。そして浮き輪を渡さない自分に「沈む~!助けろ!」「助けないなんて、ひどい奴だ」と言って来るのだよなぁ。こちらの浮き輪は一個しかないのに。

以前は親自身がどこかに相談に行った方が良いと思っていたが、自分の方が相談しようと思っている。親からの話で困っているのは自分の方なので。

では今日はこのへんで。