自分はいつだって単純。だから生きられてるなぁとゴミを見て生かされて来た自分を思う。

年末なので、ゴミ収集場所にいろんなゴミが出て来る。大掃除等を始めて、自分でこのゴミがどのタイミングで捨てられるものなのか、またはどう捨てるのがいいのかわからないときがある。買うときはそれほど考えなしに買って使って、その後壊れたときに回収費や分解して分けて捨てる労力も考えると、本当に頭が痛くなる分別。本体の大きさ、長さ、中身、質など様々であることに気が付く。それに加えて、買った当時はそのまま捨てられた物も年月を経て、「自治体では回収しません」という物になって、有料で処分対象になっていることもある。そのときは古くなるまで使えたことで何度も買い直さなくて済んだとありがたく思いながら回収依頼をすることになる。

また、ただのゴミだと思っていた物が、リサイクル出来る対象になっていたりすることもあって、単純に「今はゴミ」と思う価値基準ではわからないものがあるので、今後どうなるのか常に情報を知って旬の買い方使い方捨て方を見て行かなくてはなぁと思う。いやぁ、ゴミについてどこかの誰かがずっとリサイクル出来るよう研究していてくれたり、法律を少しずつ変化させてくれたり、そのための労力に伴うお金を捻出するにはと、いろいろと考えてくれているのだよなぁ。エライね。助かるね~。

自分が使う目的で買った目の前の物の分別くらい、しっかりやらねば…と思う反面、ゴミは全部燃やして埋めて石油になるように子孫に残せるようにしようよ、と言っていた学者の意見も頭を過る。結果に時間がかかるものについては利益を得られる人がその時代にいなければ、きっと賛成の声は上がらないだろうなぁと思う。長期的、本当に長期的な目線で考えることもきっと必要じゃないかと思うけれど、目の前で起こる実感が無い物や、今生きている人が利益を享受出来無い物については、なかなか積極的に検討されないよな。きっと、先のことを考えるとしても、生きている間、数十年とかが限界なのだろう。無理もないよなぁ。

常に、生きている間のことを考えて、最善を尽くすしかないのだろうと思う。先のことは正直わからない。わかっている、というデータだって、今わかっている物事をベースにした予測でしかないのだから(と思っているけれど、違うのだろうか?)。知っていること、わかっていることの中でしか、物事を考えることは出来ないし、行動も出来ないよなぁ。こうやって書いている自分も然りである。

良くないんじゃないか?と考え過ぎて、身動き取れなくなっていたこともある。はっきりとした結果を被るのが怖かったのだと思う。今でも出来るだけ影響を避けたいと思って、小さく生きることを自分は選択しているのかもしれない。とは言え、人が一人生きているときというのは長い時間であり、いろいろな生き物や自然との関わりを避けられてはいないのだ。多過ぎない、余分過ぎない、と自分でわかる範囲でやっているだけである。そう、わかる範囲で。

でも、呼吸して酸素をもらうのに、たくさん吸って二酸化炭素をたくさん吐いてしまうから走っちゃいけないな、などとは思わないわけで。気が付いていないところなどたくさんある。食べ物を採り、排泄だってするし、裸で生きているわけでもない。家なんかに住んじゃってて、風呂にも入るし。虫や動物が家に勝手に入って来ると言っては、何らかの処分をしているしね。いちいち数えてみたらきっとキリがないなぁ。自分を生かすために犠牲にしているものなんて、なんと多いことか。小さく生きているつもりでも、ただ生きているって周りに影響をしまくりである。あ~。

少し滅入りそうだが、今の自分は、だからこそ自分なりに存分に人生を生きないとなと単純に思う。せっかく生かされてここまで来てしまったのだ。今日もほんの少し楽しく生きよう。これから大掃除の続き。ああ、ゴミが出るなぁ。

では今日はこのへんで。