早寝したのにいつもと同じ時間に、何事もなかったように起きてしまった。しかもナチュラルに二度寝した。いつもより遅く起きてご飯を食べたが、少し違ったのは、いつも食べながら見る映画を止めて、このブログを書いていることと、昨日読んだ本の内容が頭に残っていて、気になっている。
経済行動学と呼ばれる分野の本をダラダラ読んでいて、でも、読んでいる中身はそうなのかもなと思うことが多く、過去の自分に当てはめてみては納得する。ある意味、本当に人間的な行動をしている。そして、少し人間的じゃない行動を取っているときが、目的達成に繋がっていることを知る。読むと、人間は多少の無理を承知で吹っ切って、自分で決めた人生を生きているのだろうなぁと思う。人間的な習性のような部分だけで生きている場合も、そこに抗って生きている場合もどちらも、やはり人間的に感じる。まぁ、どっちでもいいな。人であろうとする自分が可笑しく、少し悲しくもあり。
昨日、実家にお金を届けに行くと、大量のかぼちゃとジャガイモ、蕎麦、菓子をもらったということで、それらを親から押し付けられる。親から物をもらっておいて悪いが、自分は若いときから親から常に押し付けられた大量の食べ物を処理しているという感覚でいる。正直なところ、嬉しくない。あちこちからもらっているなら、違う相手にそれぞれお返しとして渡せばいいと思うのだが、そういった食料は食べずにそのままにされ、いよいよ食べられなくなる時期に、こちらに全部渡される。他の人に渡せない状態になっていることが多いのだ。
田舎で作られたかぼちゃを親は食べない。放って置いて、親は他のかぼちゃを新しく買って食べる。要は貰った物に手間をかけるのを嫌がるのだ。自分も一人暮らしだから、そんなに一度に食べられないと断っても押し付けられる。仕方ないのでゴミになるのを避けるため、帰宅後すぐに処理を早速開始した。
貰った物ですぐ食べられる物は先に食べるようにしている。一部は乾麺の蕎麦などで常温保存、その他そのまま冷蔵庫に入れる物とに分ける。かぼちゃは以前包丁を入れて開いたときに、中から大量の虫がこぼれたことがあって、とても緊張する。今回は大丈夫だった~。見た目で種類もよくわからないけれど、かぼちゃと言われる物であるのはわかる程度の物。適当に分けて、食べられるだろうと思われる部分を残して、軽く蒸しておいた。これは冷凍。かぼちゃスープにでもしよう。味見したらかなり土臭い。味付けは濃くしないとだめかもな。ジャガイモは芽が出ていた割りに、皮を剥くと深くまで傷んでなかったので、まだ美味しく食べられそうだ。早速茹でてすぐに食べられるようにした。そして、食べた。
結局、年を取るにしたがって、貰った物の手間が面倒くさくなったり、どこの家も貰い物がたくさんになって、食が細くなった自分じゃ量的にも食べられなくなって、みんなあちこちに渡し始めるのかもしれない。外で売っていなくて買えなかったり、遣うお金がなければ、時間をかけてでも自分で食べられるように加工したり保存するのかもしれないが。今は買うことが出来るし、誰もそれほど食べ物を必要としていないのかもなぁ。親世代同士の食料事情は豊かなのだろう。
こういう「豊か」な生活は、自分が高齢者になったときに、選べないと思っている。潤沢に年金があるとは思えないし、きっと食料が与えられたら、痛む体で加工して保存し、食いつなぐためのひとつとして大事する必要があるだろうと思う。そのためには今やることなのだと思って、やっている。年を取ってからすぐに出来る訳がないからだ。
食料を選べる世代ではなくなるだろうから、せめて貰った物をいかに長く保存して美味しく食べるかだ。元々料理や保存方法って、そういうものだったんじゃないか?体のため、生きるため、出来るだけ長く美味しく、健康的に食べられるように、保存したり加工して来たはずだ。
今はお金を出して、いくらでも手軽に体に良い物を取ることも出来るが、それって、自分でやれることを放棄して、誰かに委ねて生きているってことでもある。いろんな人がたくさんいて、分業が成り立っているからこそ、出来る生活だろう。人口が減って行き、分業が成り立たなくなったとき、自分でやらなきゃいけないことが増えるはずだ。そのとき、誰でもこういう知恵を活かす行動が自分の中に育っているだろうか。情報はあっても、急に出来ない気がする。人に頼んで動いてもらうのにもお金が多くかかるだろう。自分はお金をより多く出すことは出来ないと思うので、今から練習しておく感じだな。
では今日はこのへんで。