今朝も絶食して、病院での腹部エコー検査。二日続けて違う病院へ行っている。今日はいつも通っている呼吸器の専門医のところだが、消化器科も併設して受診出来るようになったので、健康診断や定期的な検査も予約も取りやすく、やりやすくなったなぁ。いくつかの病院での用事が半日で終わるととてもありがたい。
終了して帰宅中、お腹が空いているのでどこかでご飯をと思ったのだが、病院近くのお店では何かが違う感じがして、家の近所まで帰宅した。1500円ほど出してそのメニューを食べる価値があるとしたら、それその物が欲しいときだけだ。ほんの少し気分が違うな、とわかっているのなら、すっぱり諦めて帰った方がいい。払ったときにきっと後悔する。
などと思っていた帰り道、また外食の誘惑にかられる。たぶん、こういうのって、自分の道のりの中で誘惑される場所が決まっていて、ポイントがあるのだろう。改札を抜けたところで右に曲がれば自宅だが、左に曲がった自分がいた。もし、あの店が混んでいたら外食は止めて帰ろうなどと思っていても、無駄なのだ。店に向かった時点でさらに誘惑にかられるのは決まっている。お腹が空いているのだから抗えないだろう・・・。
店に着いたら満席のようで、中を覗いても、少しも席はなさそうだ。でも一組しか待っていない。なら書いておくかと店の待ちリストに記入した。5分だけ待ってダメなら帰るか、とまたここで思う。まるで、ところどころで自分にストップがかかるとでも思っているかのようだ。でもだめだよね?
やはり一度書き込んで少し待ってしまったら、待ってしまったことがネックになり、なかなか帰ろうとすることがすんなり出来ない。一度関わってしまった待ち時間は、自分の損得勘定を刺激して来るものなのだ。待ってしまった時間はどうあがいても回収出来ないはずだから、どうせなら損切を早くして帰宅してすぐに用意してあったご飯を食べた方が時間的にも金銭的にも得策であることは頭ではわかっているのだよ。それでもやっぱり、動かない自分がいた。
だんだん、この自分の行動に言い訳を探し始める。「お腹を空かしたまま歩くなんて良くない。フラフラじゃないか!」「どうせすでに待ったんだから、ほんの少し、もうちょっとすれば座れる」「最初に見た店より半額ぐらいだし少し散財しても悪くないよね?」「待った方が妥当」「久しぶりのお店だし」と次々、都合の良いことを頭の中で並べていた。
一名様どうぞ、と声がかかり、そしてすぐに料理も出て来た。お~。食べると同時に今までの経過を思い返す。自分の誘惑に対する負けっぷりはすごいものだ。今ちょうど行動経済学の本を読んでいたが、お腹が空いている(=非常事態)ときに、どんな強い意志であっても抗えなくなるということをまさに体感している。しかも罪悪感などみじんも感じない。冷静なときに判断出来るようなことが、全く出来ない上に、結果的に少し自分にとって悪いことも平気に出来てしまうのだ。まさに本に書いてある通りだなと思う。
もし、自分に歯止めをかけるのならどの時点だったのだろう?今考えると店を見に行ったときには誘惑に拍車がかかっていたと思う。お腹が空いている、という状態がすでにアウトだ。やっぱり多少の何か食べられる物を病院を出たタイミングで食べるべきだったのだ。よく飴玉一個でも食べておくと空腹を紛らわすことが出来ると言うじゃないか。
ならば、どうして持参していた飴玉に全く目を向けていない自分がいたのか?昨夜食事をした後にうっすら食べようかなと考えていた店があったせいだろう。さらに言うならば、昨日の帰り道でお腹を空かしたまま「明日は病院の近くのあの店に寄れるな」などと考えていたことも大きい。自分がお腹が空いたときに考えたことが実行されてしまったのかもしれない。
食の欲求の記憶は、味の記憶と共に欲求が治まらずに残り、お腹が空いているときはさらに強化されてしまうのか。単純に「アレも食べたい」「これも食べたい」ということが自分の中にずっと残っているのだ。自分の欲求に抗うには、計画的にひとつずつ対応して行く?いや、それじゃ全然抗えてないって。完結するためにはいつかはその選んだものを食べるんだろうなぁ。どう考えても「食べない」って決めることはないから。食の誘惑には自分の意志は負けるってことだ。食べ物をまた考えてしまって、お腹が空いて来てしまった。今からおやつを食べることにする。
では今日はこのへんで。