今の自分を否定し続けるような、そんな強さをお持ちではございませんか?

練習上手。昨日のピアノレッスンで言われた言葉だ。そうなりたい、そうなればピアノの上達の近道になると思っていたが、ようやくそうなって来たようだ。最近は発表会用に練習していたドビュッシーの小曲があるが、他にショパンエチュードノクターン、ワルツとまぁ、なぜか手をかけていたのがほとんどショパンの曲のオンパレードとなっているのも、よりピアノをピアノらしく弾くことに熱が入って来たのかもしれない。曲数も多くなっている割には、以前よりも自分で弾きやすくなったと思うことが日々あるのは、どう練習するかということを曲に対して事細かに分けて集中してやっている成果ではないかと思う。

一曲を通して弾くと短い曲でも数分かかってしまうから、全部の曲を短い時間で練習するというのは難しい。なので、今日は今から何をするか?と楽譜に向き合って、数小節またはワンフレーズ等に区切り練習したり、大きく動く練習もその動きがひとつにまとまる流れの中で何度も試してみたりしている。書いたらキリがないが、自分の違和感を見逃さずにどれだけ意識的に練習に向かうかは大事なのだなと思う。以前ほど「この練習でいいのだろうか?」と不安になることは無くなった。ピアノを始めた頃からそういう練習が出来ていたら、今よりもっともっと上達していただろうに…とは思うが、これから先に向けて今出来ることをやることのみだ。

今からやったって報われるかどうか、というのはあまり意味がない。ピアノもそうだけれど、報われるタイミングというのはそこで終わってしまうことになる。ずっと、さらに、もっともっと!やり続けたいと思うことに、終わりは一切ないのだ。完璧に上手に弾きたい、という言葉の虚しさ。どうせその完璧だと思った時点では次の目標のようなものが出て来るのだ。日々の小さな目標達成の積み重ねのようなものが延々と続くだけである。どちらかと言えば漠然とした夢で、ただ気持ち良く弾けるといいなぁと思って、そのために何が出来るのか、出来ることがあるのかを常に考え続けることを飽きないで楽しんだり面白がれるかどうかだろう。

練習が出来るというのは、小さな達成感も積み上がるので、続けやすい。続くことっていうのは、きっと毎日の小さな小さな達成感によって、さらに次は?と思い、その次なる小さな目標へ向かって出来ることをやることなのだろうと思う。どちらかと言えば、続けるのだと気合を入れるよりも、自ずと続けたくなってしまうし、思わずやってしまうことなのだ。考えてとか、意志が必要とかではない。

こうやって続けているピアノを通じて、いつの間にか先生から練習上手と呼ばれるまでになって来た自分を見て思うのは、人生の中でやりたいことが無いよと言う人や、やり続けるのが難しいと言う人というのは、どこか外から持って来て、取ってつけたようなカッコイイ生きる目標や夢を、自分のものだと勘違いしているのかもなぁということ。どこかに行って、自分探しのようなことをしないでも、自分を観察していれば一日の大半を何を考えて過ごしているのかわかるんじゃないかなぁと思う。

そう言う自分も、自身をどこかで否定し続けて、長い間自分探しをしていた人だ。それは簡単に言ってしまえば、「カッコイイ自分探し」が好きだったような。一日の大半「○○をやる生活が良いな~」とかぼんやり思いながら、仕事をしていた。実際○○と思っていたのは今のような生活なのだが、たぶん社会人として大丈夫?生きて行けんの?とは言われる生活だ。カッコイイ自分、とはちょっと違っていた。

だから大っぴらにやるのは出来ないな、少々恥ずかしいと思っていたところがあるから、どこかでそれを心の中で排除していたように思う。働かず、ゴロゴロして、ピアノを弾いて、友人や家族とご飯を食べながら話をして過ごし、ところどころボランティアをして、気が向いたら創作も行い、ケーキを食べる生活。それを実現するのは気が引けるなどと思ってたのだが、何のことは無い。やり始めたら、自分探しをしなくなった。今いる自分を否定しなくなった。肯定感は上がった気がする。単にやればいいことだった。

カッコイイ感じじゃないけれど本来自分の望んでいるものというのは、勝手に体も動き、続くのだなと感じている。この生活が続くにはどうすればいいのだろうか?ということを頭の中で常に考えることも容易い。嫌々ではないから、何とでもなるというのが実感だ。

それに比べて「カッコイイ自分探し」みたいなものに囚われていたときは、自分が望んでいる姿とはかけ離れているせいか、努力を強いられ、動きが悪い。だから努力も続かない。一日の中で出来る限り考えたくないし、常に難しさとストレスが伴う感じだ。そういった辛さみたいなものが努力だという人もいるし、好きな人もいるだろうけれど、私はどこかでこれは変だと感じていた。「自分のためといいつつ、なんでこんなに辛く感じることをずっとやらねばならないのか」と。

ずっとやっているのが辛いなんて、人生の大半をその感覚で過ごすって何だろう?それは幸せなのか?と、カッコイイ自分という夢を思い描いては疑うということの繰り返しだったように思う。苦痛しかない努力なのに、日々小さなことも報われない。だから次へ続ける動機も不安定で気力も湧かない。人生がこれから先もずっと辛いなんて、嫌だよなぁ。

子どもも巣立ち、ほんの少し貯金も出来て数年は暮らせる。ならば、今までの調子で生活して行くのを止めたいと素直に思えたのは幸福だったと思う。無理ばかりで、苦痛を伴う報われない努力をしているなと思ったら、その夢から一旦離れた方がいいのだろう。他人の憧れる夢を自分の夢なのだと思い込んでしまったのかもなぁ、と今なら思う。カッコイイ自分探しは終了した。

まぁ、そんなふうに痛い思いをしながら、よくわからず右往左往しての今の自分があるのだから、半世紀そんなことに思いっきり費やして来たことも無駄ではなく、自分の財産でもある。いかに誰かの素晴らしい経験を知り得て、真似てみても、実感というのは自分で試してみた後に初めてわかるわけなので、そこに納得する自分がいるかどうかはわからない。人生は自分で決めて、何かをやるしかないのだ。だからいくらカッコイイ自分探しなんて…と私が語っても仕方の無いことなのだ。今は、自分は元々ここに居たんだねぇ、と長年探し回っていたアホを大事に愛でているところだ。あ~、ものすごい無駄話を書いてしまったなぁ。

では今日はこのへんで。