ああ、あれがいつも貧乏だと言うお金持ちの人ですか。

お金を遣うときに、同時に、他に遣えたかもしれない機会を損失しているというような話が書かれた本を読んでいる。たまたま図書館で文庫本の棚を見ていて、ちょっと棚から出っ張っていた本を借りて来ただけなのだが。そんな感じで読み始めた本の中身がちょっと面白くて読み進めている。

そう、お金を遣う瞬間に誰もが他にお金を遣う機会を失っているにもかかわらず、容易くお金を遣う。ちゃんと意識しているとき、選択に迷い少し優柔不断になった自分がいたら、きっと遣うことが出来ないかもしれないなぁ。まぁ、今は自分は迷ったら遣わなくていいなと思うようになったから、どっちにしても遣わないことが多いのだが。

疲れて判断力が鈍っていた頃は、欲しいという気持ちがわからないけれど気になったのだから買ってしまおうと思って買ったことも、過去にはある。食べ物が多いから、一度に食べきれなかったり、美味しいとされるタイミングでゆっくり食べられなかったり、無駄なこともして来たと思う。今はそういう時期を経て、一番美味しいと感じるタイミングで適量を、というふうになったから、今すぐではなく他のいい機会を作るまで買うのを延期することもある。きっと、そういうことがお金の遣い方では無駄がないし、価値あるお金の遣い方なのではないかなぁと思う。「ちゃんと自分のために遣えたなぁ。」と思えるのがいい。

それに比べ、今まだ存命中の自分の親を見ていると、お金の遣い方がひどい。残金が無いとわかるとすぐ借りる人だし、流れて来る目の前のことにお金を遣う。それ自体は別にいいのだ。入って来るお金があるうちは。だが、借りたら自分自身で返せるあてを考えないことや、自分の生活の優先順位を考えず先着順に起きたことからお金を遣うことで、「お金を遣っている」という感覚はなく、必要になったから遣っている、自分で欲しいものは我慢しているのだとなってしまうのは、どうかと思うのだ。必要な物しか買っていないよ、という言葉を何度聞いただろうか。無駄遣いはしていないという言葉を聞く度に、足りるように遣ってくださいと言うしかないでいる。

親は年金生活者なので、一か月に遣える額が決まっている。貯金などない。それでも年金額が自分から見たら多いと思う。だから暮らせるのだろうなとは思う。それでも一年先までの間に必ず支払うものというのは決まっているので、それを差し引いた分がある意味手取りで、遣える金額は自ずと決まって来る。だから1か月か1年分を考えて遣うか区切りは別として、限りはあるのだ。その中で自分の必要を意識して、どれに遣うのがいいのか決めて行かなくてはならないと思う。親は必要というのは今必要であって、1ヶ月先に必要なものを含んだ必要ではない。まさに今手元にあるお金しか見えてないので、数日後であったとしても他に遣っていくであろう必要とするものに気が付かないのだ。

これが生じる基本的なところには、「どこまで生きるかわからないから」という理由がある。誰もどこまで生きるかわからない。だから、自分も遣いたいだけ遣うのはいいと思う。けれど、遣っている感覚がないまま、いつもお金が足りないという感じのまま生きているのはもったいないなぁと思う。

そういう人を何と呼ぶのだろう。私から見たら浪費家にしか見えないが、きっと違うだろう。何にお金を遣いたいかは人によって違う。自分だって、ケーキやパフェにかけるお金は友人から見たら「高いのに~(、よく遣えるね)。」と言われる。他に自分は遣うものはほとんどないから、意識的に遣っている。最初に書いた機会損失というものを考えると、自ら意識的に失う物事を選んでいると言えると思う。お金を遣っているというのは、お金だけ失うのではなく、この先ある他の楽しみを引き換えに失っているんだよ、ということだ。それでもいいか?と自分に問うてお金を遣い、買うのだ。

これは親にも言ってんだけどなぁ。「この○○にお金を遣ったら、○○は無くていいということだね?」と。でも、それは嫌だと言われる。ふーぅ。これを書き綴っていて気が付いた。親が失っているのは何だろうかと思っていたが、たぶん「お金に苦労せず余裕を持って暮らしている感覚」を失い続けているのだろうと思う。先ほど書いていた「お金を遣っている」という自覚がなくて「お金が足りない」としか思っていないからだ。常に自分自身について、何かにつけて自覚があることが大切なんだなと思う。きっとこの先、親自身が「お金があるなぁ。」と思う機会はないだろう。人から見たらお金がある人だなぁと思われたとしても、だ。

では今日はこのへんで。