庭の柿を渡した人からジャガイモをもらった。友人から送って来た!とお礼にもらうことになる。物々交換しているみたいだなぁといつも思う。こっちとしてはあげるだけあげて、交換もしなくていいのだけれど、一見してみると、もらうばかりではどこか窮屈になるのが人間なのだろう。
今年は、柿を持って行って、初めて断られた家があった。「いつもお世話になってばかりでもらう義理がありませんから。頂けません」と言われた。無理強いする必要もないので「柿、もしかしてお嫌いでしたか。すみません。」等声をかけて帰って来たのだが、正直ちょっと驚いてしまった。単に自分が嫌がられているということもあるが、それだけではなさそうである。物のやりとりは負担になる人もいる。自分のみならず、人と関わりたくないという人もいて、当然だ。
そこのお宅は隠れるようにひっそり暮らしたい、という感じが元々あったのだ。玄関近くに○○の関係の人は敷地に入ったら通報します、と書いて公言しているくらいだから、出来るだけ○○と関わりたくないのだろうなとは思っていたのだが。何か大きな負担を背負わされたことがあったのだなぁと思っている。誰かに無理矢理恩を売られて理不尽な要求に対して恩を返すのに苦しんだのかなあ。・・・勝手な想像である。今までも渡すのを少し躊躇する程度には気にかけてはいたのだが、近所の人に配っているのに声をかけない家があるというのも気になってしまっていたので、今回断ってもらって自分の方が対応に困らずすっきりした。
柿ひとつもらうのに、その分を返すあてがないときもあるだろうし、返そうと思ったらあてをつくるのも負担になる。何かをもらうという行為は、相手の気持ちを「何か裏があるのでは?」と勘ぐることもあり、そのまま受け取れないこともあるだろう。悪意じゃなく純粋な気持ちだとしても、好意というのでさえ負担になり得る。だから、いつも柿を喜んで受け取ってくれる人たちがいて、負担にならないことを望んでいるのでありがたい。まぁ、それでも「受け取るばかりだったから何か返したくてね。」と何かをもらっていることも多い。自分は遠慮なく受け取っている。
自分ももらってばかりよりは、何かをあげられる方が嬉しい気持ちになるのはよくわかるからだ。自分はもらうときにとにかく喜んでもらうことにしている。あげられるものがあって良かった、という言葉をよく聞く。もらうよりあげる方が喜びって大きいかもしれないなぁ。自分が何か出来たと思えるからかもしれない。
子どもや若い人なんかで、お金で物をたくさん買って配る人がいると、諫められていたなぁ。そんなことを思い出す。親からもらうお金が無くなると、犯罪を犯して稼いでまで物を買い続ける人も出て来るし、そうしないと周りとの人間関係が切れてしまうようなことになり、そういうのって良くないねってことからだ。けれど、どうなんだろうねぇ。大人になった場合でも、そうやって続けている人なんてたくさんいる。お金を発端に繋がる縁なんて、結構いるじゃないか。人の興味をお金で買って引き付けている人。お金の切れ目が縁の切れ目?普段の人間の付き合いでも、手ぶらでご挨拶することなんてほとんどないよねぇ。ああ、だからお金が無いと最初から挨拶もせず縁を避けるような人もいるなぁ。
お金は遣える価値のあるものだ。親しくなるときに、お金を遣って何を持っているかを見て、相手の様子を垣間見ているじゃないか。金銭感覚や生活レベル等を周りにも明かして、見られている(まぁ、騙し騙されることもあるんだろうね)。自分も、相手を見ているし、相手に見せているよなぁ。お互いに繋がる縁、繋がりたい縁、繋がりたくない縁を選んでいると思う。
お金(小遣い)をフルに遣い、周りに物を配る子どもがいたら聞いてみる。「お金無くなったらどうするの?」と。大抵は「親から貰う」「キョウダイから貰う」「祖父母から貰う」と言うのが多く、貰えなくなったらどうするかと聞くと考え込む子が多かった。「自分で稼げるようになる」と言えるようになったら別にいいんじゃないか?とか思う。もちろん、犯罪で不法に稼ぐはダメだけどさ。
思いつくまま書いてしまった。いつもだな。今日はこのへんで。