これ(ブログ)とは別に文字をたくさん書いていて、そのとき仕事のことについてふと思ったことがある。仕事と聞いて、単に何かをやったことによる対価としてお金をもらうことだと思っていたが、どうやらそうでもないらしいなと、こんな年齢になって思う。
誰かの役に立つから貰えるんだ。そんなシンプルなことに気が付いた。だからこそ、自分で役に立ってないな~と思うと、そのお金が何だか卑しいものに感じていたのだな。役に立つことをしたからお金を貰う、というのが仕事。役に立っている感がある場合、お金がいいものに見える。堂々と貰っていいものになる。だからこそ、仕事の業務そのものにちゃんと向き合ったりして、成果を収めるというのは大事なことなのだなぁ。
世間を見ていると、「もっと働いたぞ」と他人にもっと貰いたいと要求することもあるようだが、要求する人ってすごいなぁと思っていた。要求する人はきっと成果を出して、ものすごく仕事をしていた感がある人なのだろうね。
自分はというと、自信の無さから成果を出せている感じが自分では持てなくて、こんなにも貰っていいのだろうか?と思うことが多く、貰うお金と同じ価値があると思えなかった。単にお金が欲しいと思っても要求なんてしようと思うことなどなかった。けれども、実は相手が気が付かない範囲までやっていて、意外と適度に仕事をしていたのかもしれないなぁと最近思い返している。お金はちゃんと貰えていたわけだから。自分自身が思う能力と、他人が評価している能力というのはやっぱり差があって、自分が勝手に思って目指していた仕事量や質よりも、相手が要求していたものの方が下回っていたということもあるのだ。とても変な言い方だが、求められていないことまでどんどんやろうとして疲れるという自分がいただけというのも多いかもしれない。誰かにストップされれば、それはそれで嫌な気持ちになっていた。
適度がわからないというより、適度で仕事をしたくないのだろうと思う。そんな中で「出来ていない」とか「果たせていない」とか思って自滅する場合もあったのだろう。自分の仕事に対する理想が高いのかもなぁ。理想が高い分、自分でどこか都合良く勝手に、自分自身の能力を見限ってしまって来ただけのところもあるのだろう。役に立てば誰かがお金をくれる社会なのだ。自分が役に立っていると思わなくても、本来お金を貰っているということは、役に立っているのだ。だから、お金を貰えたなら「仕事は出来たのだ」と思うことにしようと思う。
もちろん、最初の頃は仕事を覚える時間な訳なので能力は不足しているけれどお金がもらえる。会社も戦力としてどうなるかわからない人材に投資をしているのだ。だから数か月とか一年とかで辞められると、投資した金額に満たないまま持ち逃げされるようなものかもしれない。試用期間があるのはお互いにとってメリットがあるかもなぁ。まぁ、今の時代は試用期間という時期を設けないで、能力なさそうだなと思ったら働く側も会社も簡単にお互いを見切ることが容易くなっているように設定して、育てる余裕はすでになさそうだけれど。
今度始めるケーキ屋のバイトは、店主をお手伝いしたいと思ったからで、役に立たないと全く意味がない。店主の役に立てばそれでOKだ。自分の力量が足りないなら足りるように頑張るつもりだ。努力をしようと思う。逆に、自分が容易く出来るような仕事なら、ちょっとの力で済むことをそれはそれで喜ぼう。ほどよく手伝いが出来るならそれも良いなと思うし、もっと力になれて、店主がラクになれるようならもっといい。誰かの役に立ったぞ、と自分が思えてお金を貰えるようにしよう。いい働き方が出来るといいなぁ。
では今日はこのへんで。