久しぶりに夕方少し混んだ電車に乗る。昼間にあった演奏会の帰りだ。混んでいたが何とも思わない。たぶん自分が疲れている訳でも無理している訳でもないからだろう。一日朝早くから仕事をして、いろいろと疲れて乗り込んだ電車ならどうだろうと思う。心がキューっとするような辛いことや穏やかになれない理由があって、乗り込んだ電車だとしたら、また違うことを感じるのだろうなぁ。向かう場所に楽しいワクワクが待っている場合なら、自分の内側から喜びが溢れ出しているかもしれない。きっとごちゃ混ぜの思いを乗せて電車は動いている。自分が楽しいから周りが見えなくなって、悲しんでいるとか怒っているとかの気持ちなど気が付かずにいても、ごく普通の顔をしてそこにいるのだろうなぁ。表情でさえ同じ顔をしているように見えてしまうけれど、きっとみんな違うことを思って過ごしている。
行きの電車の中で小学生の団体と会った。引率の先生が座席に座る子どもに人が来たら立ちなさいと声をかけていたが、ギュウギュウにくっついている子どもたちのグループを押し退けて、大人は座席に座れないだろうなぁと思って見ていた。気にしている子どもたちは空の座席の前で立っている。きっとこれは難しいぞ。乗り降りする人たちもどう声をかけたらいいのかわからず無言で電車の中を移動していた。
でも、待てよ。大人はここで普通に「降ります」とか「通してください」とか、何らかの言葉をかければいいのだよなぁ。大人が普段黙って電車も降りたり移動したりしているのかもなぁと見ていて思った。何も言えない大人になってしまっている。その場で黙っていて、後で子どもが電車に乗っていて通れなくて邪魔だったとか座れなかったとか、迷惑だ云々を言っていたりしないだろうか。自分も奥に座っていて見ていただけだが、何か声かけは出来なかっただろうかと思う。座席の目の前に子どもたちが立っていて、こちらから見ると遮られているみたいで、空席ばかりとなり、立っている空間だけが混んでいた。「空いていますよ。座ったら。」と子どもたちにも一言言っても良かったかもしれないと思う。自分もその場で状況に合わせて声をかけるのが相変わらず下手で、そのままどうしようかなと思いながら見ているだけになってしまった。
子どものことで言えば、ああいう場が体験の積み重ねになる。だから大人はその貴重な学びの場に参加しているわけだ。何を重視するのか。人によっても様々だろうなぁ。子どもたちが電車に乗っているときの様子を見ると、学んでいるのだなと感じた点があって、先生がいたせいか、みんなものすごく静かに電車に乗っていたこと。学校で移動するから静かにしているのかな?とも思った。引率する大人がいるときは行儀がいいのかもしれない、と思ってしまう。
登下校で慣れた電車に乗り込んで来るときはみんな大騒ぎしている様子を何度も見かけていて、楽しく大きな声で話したり、動きもあってにぎやかになることもあって、ちょっと疲れるところもあるけれど、子どもが当然のように元気良過ぎ!と思う場面で、ほっともする。あまりに静か過ぎると恐ろしくもある。ねぇ、エネルギーはどっかに行っちゃった?と思ってしまう。走り回って大騒ぎしろとは思わないけれど、小さな声でも気持ちは抑えきれてないよという会話しているのはダメなのか?と思うくらい静かだった。
座っている子たちの中には居眠りしている子どももいた。まるで大人みたいだ。この子どもたちが子どもらしかった時間はあったのだろうか?と思う。きっと子どもらしい、という姿ももしかしたらもう、大人が望んでしまう行儀の良い都合の良い子どもだったりするかもしれないなぁ。たぶん、まだランボーだけれど明るく元気の良いちょっとわがままな子ども、なんて自分が想像する子どもはもういなくて、そんなものは大多数の概念からはすでに消えているのかもしれない。
まだ何もわかっていない、伸び伸びしている、学ぶことがいっぱいあるね、という子どもはいるんだろうかと思うくらいちゃんとしている子ども。もっとたくさんの子どもに会えば違いに気が付くだろうか。大人が育てやすい子どもは、育ちにくいんじゃないだろうか?と思う。手を焼いた経験がある親は見えているものがある分、変化を感じやすいが、見えないものは難しいだろうなぁ。子どもの謎が深まる、なんてことになりそうだ。っていうか、すでに自分にとっては謎になっている。年齢がどんどん自分と離れてしまったせいかもしれないが。
そういった行儀の良い子どもたちに出会ったときでさえも、電車内で起きていた出来事のように、小さなことだけれど、大人である自分が気が付いて、まだ出来ることはありそうだ。見ているだけ~ではなく、気が付いたときには声をかけてみることだ。下手な大人が声かけて来た、を自分はやり続けるんだろうなぁ。何も、スマートな大人ばかりじゃないよってことを知ってもらうのも大切でしょ。
では今日はこのへんで。