無職生活が8か月過ぎようとしている。何だか思ったより規則正しい生活が続いていて、自分でも「そうなんだ」と驚いている。夜は眠るし、眠れないときも朝は起きるし。健康的な生活をどうやら周りの環境というものがそうさせている。ご近所の生活習慣は自分の生活にどうしたって食い込んで来る。周りの人が規則正しく生活をしている生活音のおかげで、ああこんな時間なのだなと気が付くこともあるし、朝は小動物も走り回っている音が聞こえたかと思うと、次々に朝の準備をしている気配とあちこちの雨戸を開ける音で目覚めるしかなくなる。そのまま眠ることは数えるほどしかない。寝ても8時位には起きてしまうので、健康的なリズムがそのままだ。
ただいろんなモチベーションが低いのと自由の面白味が薄れている。もしかしたら、ギリギリの「生きる」というやる気を保っている最中かなと思う。やりたくないこと、みたいなものが少ないので、そもそものやりたいことが当然のように出来る。とは言っても、大したことをやりたかったわけではなくて、こういう時間に囚われずにやりたいと思った瞬間にやりたいことが出来やすい生活のみを手にしているところだ。
気分が赴くままに何事も出来ると調子がイイかもな~と思っていたが、人間の生活というのは自然にも影響されているし、そのせいで自分の気分や体調にも左右されている上、暮らしを支えてもらっている基盤となる社会の動向からも逃げられてはいないから、思ったほどそうでもない。関わりが無くなるというのはあり得ないのだろうなと体感している。自分の世界というのはとても小さな範囲で行われていて、自分は世捨て人になるなど出来ないのだなと思う。金銭的にとか会社から離れてとか位は調節出来る気はするけれど、人が作る社会の一員から外れて生きて行けるような生活は無いなぁと思う。
ただっ広い森を買って山で住んで、今健康で若くても、いずれ年を取れば一人ですべての自分の生活を支えることは難しくなる。野生の動物のように、年老いて弱くなり食べられて一生を終える、なんてことと同じなのだろうなぁと思った。一時期そういう生活をして生きて行くというのは、一時期であって、生れたときから暫くの時期、年老いて死ぬまでの間は、誰でも何かしら人と関りを持って生きているのを避けられない。
どのタイミングで今身近に自分が置かれている社会と関わるかもわからないが、どの道関わることになるなら、自分はどうしたいのだろう?と思う。今はまだ距離を出来るだけ取りたい気持ちでいるんだよな。たった数ヶ月、仕事をして稼ぐという場からは離れているが、ボランティアにも行っているし、意見も言って人とも会っている。もし、誰にも会わずに話もしなかったらまた違った考えを持っただろうか。まぁ、自分ではたぶん無理だろうけれど。
ここ数年、社会で自分は要らない人なのだ、と思って生きている人たちと話す機会を多く過ごして、自分自身はどうなのかなぁ?何が違うのだと漠然と思って生きて来た。おかしいかもしれないが、どこかで「社会から要らない人」になろうとしている自分に気が付く。どんな扱われ方をしているか、どんなふうに感じるか。社会が重荷だ、と感じてしまうのは、どこまで逃げて行っても社会から要らない人には誰もなれない証拠でもあると感じているが、どうだろう。まだ体験も途中だ。
では今日はこのへんで。