たくさんあるときは見向きもしないで、無くなったら無性に欲しくなるものばかり。

米について、あちこち回って違うタイミングで見ているけれど、なかなか出会わなくなって来た。アルファ化した玄米の小さなパックでさえ、見かけることが少なくなって来ている。パックご飯も減って来た。家計の中で節約するためなら米を買って食べる、という常識が通用しない状況。それでも米が手に入っている人もいるわけで。ツテがある人とない人、高い値段を出せば買える人、だんだんと他人と変化が出て来ているのを感じる人もいるだろう。私は買っていないけれど、残った米で暫くしのいで、その後はどうするかなぁという感じだ。まぁ、まだ外食をすれば米を食べられる環境だ。

ここに来て、これだけ米が無い時期が続くと、米離れは本格的に進むこともあるのでは?という不安が過る。以前から日本は米を食べなくなったということでニュースにも度々取り上げられていたと思う。そこからのこの状況。一旦は米を探してウロウロするけれど、その後は暫く米じゃないものを代わりに食べて、米の無い生活に次第に慣れて行くのではないだろうか。慣れの後はふと気が付くタイミングが来る。「なんだ、米は今の生活になくても大丈夫じゃないか」と。そうなったら、余程今よりも安価で安定して、美味しいものとして、他の物より魅力を発揮しないと誰も手に取らなくなって行く気がする。本当の米離れが始まる・・・なんて思ってしまった。もし政府が何らかの目的で出し渋りをしていたとしたら、米はいつの間にか興味が失われて自給率も下がるんじゃないだろうかと怖くなる。そうでないことを願いたい。

たまたま一人暮らしをしている家族と連絡を取ったが、米の様子を聞くと一か月ほど前から食べていないと言う。しかも何も困っていない。全ての食事を自炊で生活しているから、米を主食にした方がラクだろうと思っていたが、今は手に入らないので他の物を食べ続けているらしい。米は要らないよ~という声が返って来た。そんなふうに誰もが米を求めなくなって行くのかもしれないなと思う。どうだろうか。私は米を食べたいし、米の自給率を下げたくないけれど、次第に変化が出て来て、農家も減って今後は変わって行くのかもなぁ。

人は環境に慣れて行くことが出来る生き物だ。米から離れて、方向転換して、いかに生きやすく食べて行くかをすでに考えて答えを出している人も多いだろう。この際、主食を思い切って減らす人もいるかもしれない。または雑穀のみを食べる人もいたりして。小麦食やオートミールなど、今はまだお金を出して買いさえすれば、いろんなものがある。高価になることはあっても何かしら食べる物が存在するから、まだまだ実際には何かを食べることに困らないなあと思う。

けれど、今後食べる物が減る時代が予測されていると聞く。生き残りをかけて競争することも増えるのかもしれない。でももし、今自分が満足して食べているのなら、やれることはその先の自分のために蓄え過ぎないことだと思う。今まさに、この状況が練習のようだ。いろんな人に米が行き渡る様に米を見つけても余分に買わないこと。出来ることは、自分よりももっと必要な人へ渡すことだ。自分は今それほど必要ないのに手を出していないだろうか。他の物を食べることが出来る人は、積極的に他の物を食べることで、誰か困っている人を助けることが出来る。必要必要、と思っているわりに、手にした途端どこか戸棚の奥にしまい込んで忘れてしまっていないだろうか。米や食べ物に限ったことではないな。自分にとって大事なものは堂々と手にして、そうでもないものに対しては手を出さない。何かの足しになるかなぁ、というものを手にしてしまったら今すぐ真っ先にそれを消化しよう。手に入れるために動くこととか、買いに走るのはその後でいいのだ。

さて、米が手に入りにくくなったことで米に執着して行く人が増えて、今後も安定需要となるか、他の物へ完全移行して米需要が激減して農家が潰れてしまうのか。いつもあった物がない状況下とは、自分を見直す機会になる。自分は変化に乏しい人なので、米があるうちは米を食べ、無くなったら違う物を試してみるかな。

では今日はこのへんで。