昨日は夏休みの小学生向けボランティア活動で救命講座に参加した。消防の方二人がAEDの使い方を指導してくれる。度々出てやっているはずなのに、忘れているところもあって、子どもたちと一緒になって学ぶ。体が小さい子もいて、救急車が到着するまでの時間を周りの人とリレーしながら心臓マッサージをつなぐ練習になる頃には、かなり疲れた様子だったにも関わらず、必死に全身で最後まで諦めずやっていた。
こんな子どもたちがいることを感じると、未来はそんなに暗いもんじゃないなと思える。ほんの少し、一握りの人たちでいいのだ。消防士の人から言われた「今日やれることはただがんばることです。」という言葉が重なる。命をつなぎとめられる可能性に向かってただただ精一杯頑張る。それを見て素敵だと感じるのは人間としてきっと自然なことなのだろう。いつもなら頑張るというそのものは拒否反応が出てしまうが、人を助けるために出来ることをその場で必死にやり切るというのも良いなと思えた。
今回担当してくれた消防士さんは何度かお目にかかっているのだが、少し不器用というか、お話が上手では全然なくて、子どもたちや大人に対して言葉が詰まって何度も言い直したり、言い足りなくて後から後から言葉を続ける人だった。けれど、全然嫌な感じがしなかった。一生懸命さが伝わって来る。伝えたいことがいっぱいあるのだなと思った。子どもたちには十分に内容と熱意とが伝わったんじゃないかと思う。ちょっとシドロモドロでも中身が伝わればいいのだ。どんな思いで何を伝えたくてやっているか。人って結局そこに胸を打たれるのだろう。
…なんて、何年も消防をやり続けて来たちゃんとした大人の人に対してエラソーに私が言うとは。自分のことはしっかり棚に上げているわけだが、手際の悪さやしゃべりの不格好さとかは、本人の人としての信頼感とは関係ないのだなぁ。すぐに話し方のスマートさが無いなどと人にはケチをつける自分を恥じた。
どこでどんなふうに生きようといいのだ。好きな場所で好きなように生きたらいいのだ。他人にとやかく言われる筋合いはない。そんなシンプルなことを思い出している。周りから見て本人に向いていない仕事をしていてもいいのだ。本人がいいなら、いいのだ。「向いていなくて大変でしょう?辞めた方がいいのでは?」なんて、本人にとって余計なお世話だろう。相手のことを思っているなら、そんな言葉は必要ない気がする。周りはただひたすらフォローをする。向いてなさそうでも、諦めて辞めるのも続けるのも本人の人生だ。
フォローをしてる側がもう駄目だと思ったなら、これ以上はフォローは出来ないと告げるしかない。フォローする側がフォローすることを諦めただけのことだ。それもフォローする本人の人生。仕事に向いていないことを気が付かせるのが優しさ、などと言う人がいたけれど、結局は向いていない人に辞めてもらった方が仕事が回り、楽だったのだろうと思う。相手のせいにして、自分自身が出来なくて諦めなきゃいけないことを見ないようにした、ということ。
私も、今まで一緒に仕事をしていたがフォローし切れず辞めて行った背中を何度か見送った。自分がその人の続ける気持ちに結局のところトドメを刺したことがあるのかもしれないなと思い出している。何も出来なかっただけならいいのだが、大して迷惑をかけられたわけではないのに仕事の結果に落胆した様子を見せたことがある。その後割とすぐに仕事を辞めた人たちのことを思い出すと、私が最後の砦のようなところにあったのか、と思うことがあるのだ。今でも本人の人生の決断だから、とは思う。けれど、同時に自分が達成出来なかったことの諦めのひとつを見るようでもあるのだ。「無理なんだな」と自分の限界を知ったなぁ。
つらつら書いて思い出したのはきっと、昨日の消防士の姿を見たからだと思う。二人で来ていたから、一人の説明や進行がシドロモドロでも、もう一人がマイペースで自分の仕事をしていく。私も声かけをする。子どもたちも自ら望んで聞きに来る。その場にいる人間がお互いに同じ目標に向かって動くのだ。何の滞りもなく終了したのは、一人の進行役が上手だったからではないよな。それに加えて、私だけが立ち回ったわけでもないよ。どちらかというと一緒に不器用な話し方をしていた気がするなぁ。
では今日はこのへんで。