取って付けたような高尚な目標よりも、今日はお腹いっぱいラザニア食べるぞ、でいいよ。

好きなことをしている毎日である。何か高尚な目標に向かって生きているわけではない。というより、何かに向かって生きるということをしないのだなぁ。まあ、もし改めて目標を考えてみたところで、意識に上ってしまった途端に色あせるだろう。今日の自分と明日の自分はまるっきり違う。明日なんて来ないかもしれないしなぁ。だから、堂々と今日も思いつくまま、そのときそのときやりたいことをやって過ごしている。

そんな感じなので、たぶん以前占いのようなことをしている人に「刹那的に生きている」と言われたのかもしれないなぁとふと思い出して合点が行った。今、という時間の幅がとても短いのだ。最近ではさらに短くなっている気がする。こんな風に自分の思いに歩調を合わせて生きていると心は穏やかだが、世の中に合わせるとじれったくて仕方がない。今やった方がいいことを何らかの予定まで待つ、ということをするのが苦しいし、合理的理由も無くて何でやらない?と思ってしまう。結局待つと、旬を逃してしまうから、どうでも良くなってしまい面倒くさくなる。面倒くさくなったらテコでも動かなくなる。周りもきっと面倒だな、と思っただろうなぁ。ははは。

とは言いながら、そんな自分も周りに合わせてここまでやって来たはずで、だからその分余計なストレスも多かったのだろうなと思う。自分では気が付かなかったが、きっと大いに疲れて生きていたのだろうと思う。うまく、ちょうどよく疲れるということが出来ないのに、疲れ過ぎないように手を抜くみたいなことを試したこともあったが、それも結局は自分に対して無駄な抵抗だったのだと思う。やりたい気持ちがあるのを抑えて生きられるほど程良く何かをやるような器用さはない。

程良くやっているように周りから見えるときは、「こんな無駄なことを…」とすでに思っている。やりたくない気持ちが満杯で、生きている時間を無駄にしていると思っていたよなぁ。まあ、それでもお金を稼ぐのが一番の目的なら、働くことも出来たのだけれど、稼ぐことも自分の目的から外れてしまった今となっては、自分の気持ちが一番優先されるから、面白そうなことが無い限り今のような生活を続けてしまうだろう。もしくは、お金が底をついてしまって、単純にお金のために働くことを始めるかだ。

最近の世の中では働きたくない人もたくさんいるんだなぁと思う。働くのが「お金を稼ぐこと」ならば、お金を転がしてどうにかして生きていたら、それは働くことにならないだろうか。無職でも預金や投資、または賭け事で増やせば働くことになるのだろうか。食べて行けたら、それでいいのか。なら、生活保護をもらうとか、家族の誰かから集めたお金で生活したり、またはいわゆるヒモと呼ばれる人のように相手に愛を感じさせることでお金をもらって遣って過ごす(ほとんど想像…)のでもいいのかなぁ。何だろうなぁ。お金を稼ぐ、そのやり方にも差があって、人から嫌われるものや犯罪になるものもあるし、犯罪でも何でもないどちらかと言えば権利なのに恥ずかしいとか良くないことだと思われるもの、人々の助け合いの精神から生きられるようなものもあるんだよなぁ。

過去の自分が働いたお金で今生きている途中。今の自分が働いたお金で生きているわけではないように見えるからか、何となく肩身が狭く感じる瞬間があるのはなぜだろう。その一方で、あくせく働いていない優越感みたいなものもちょっぴりある。なぜだろうね。もし、こういう生活があと5年ほどで終わってしまったとしても、自分にとってはその体験をするかどうかで人生の悔いの残り方が違うだろうなと思う。ずっと先の来るか来ないかわからない未来の不安より、過ぎ去って行く今が無くなって行く方がより怖い。やっぱり今が優先だな。

昨日今日とラザニアを作って食べた。ミートソースとホワイトソースも作って、板状の麺もこねて作ってみた。働くための何の足しにもならないが、家族が食べたいと思える物を作ることや、自分が生きる今日を少しだけつまらなくないようにする足しにはなる。

では今日はこのへんで。