気が早いと言われても仕方がないが、やっぱり会った瞬間にサヨナラなんだよね。

世の中盆休み中で、街がとても静かだ。一斉に大移動しているのだろう。テレビで車や新幹線の混雑状況が流されると、人が自分が住んでいる街からどんどん流出しているのだなと感じる。ご近所も雨戸を閉めて車で出かけ始めて、今はいないところもある。今日あたり、大きな道路のところの歩道橋を登って見れば、どこを見ても車がすでに通っていなくて、どこまでもガランとした広い道が続いているように見えるだろうなぁ。ひとときの異空間を味わえる。しめしめ。渦中で大移動をしているとわからないが、ちょっと外にいる場合はいつもとは違う人口密度の少ない空間にいられる。まあ、ある意味大移動中の人も普段とは違う空間にいるのかもしれないが、私はこちらの方がいい。

異空間という訳ではないが、季節が春夏秋冬四つの変化のある国に住んでいて、そのそれぞれの季節の終わりになって来ると、新しい始まりの季節も待ち遠しくてワクワクする一方で、一つの季節の終わりを感じて無性に寂しくなる。蝉があれだけうるさく鳴いていて「あっちで鳴けよ。」と思っていたにもかかわらず、ジジジッと言って飛び立ち、カランと屋根の上に落ちた音を聞くと、急に寂しくなっている。少しずつ雲の形も変わって来た。変化が寂しく感じさせるのか、それとも何度も重ねた季節の移り変わりの際に何かがあって、その覚えてない小さな何かが胸に残り、この思いだけを思い出させているのだろうか。

忙しくて、そんなことにも気が付かないであっという間に他の季節の真っ只中…ということもあるけれど、何とも言えない寂しさも感じるこの状態に陥る生活のペースが気に入っている。センチメンタルに生きている方が好きなのだろう。それはきっと、ほんの少しの感傷だからかもな。どっぷりはまって辛くなるほどではないからだ。この感覚の正体がわかっているからこそ、楽しむことも出来ているのかもしれない。

子どもの頃は親に連れられて少し都会の街にバスに揺られて行き、ひととき楽しんで帰るバスは自分ではなぜかわからずものすごく寂しくて、窓の外を見ながらうっすら涙を浮かべていた。よくわからない涙と共に、「今日の日はさようなら」という歌を小さく口ずさむ。いつも大体途中で泣き疲れて眠ってしまい、到着したバス停で親に起こされて家に向かって歩き出す。そんな感じだった。いつもと違う場所に行って、そこで楽しむけれど、楽しさには必ず終わりがあって、またいつもの場所に帰って行く。つまらない場所に帰るわけではないし、どちらかと言えばいつもの安心出来る場所に帰るというのに、この寂しさは何だろう。次はあるかもしれないけれど、無いかもしれない。

街の風景がただ流れて行く窓越しに人生を重ねて見ていた、なんていうことはないのだが、今日というものはもう二度と同じものはない、過ぎ去って行くものだ、という感覚はあったのかもしれない。今日という日、そこにいた自分、街、人々、その他諸々のそこにあった全てがいつだってもう二度とは出会えない。だから、周りに歌を歌ってるように見せて、言葉でさようならと告げていたのだと思う。

そんな子どもの頃の自分と今の自分がかけ離れていなくて、大して変わりない。歌を歌い、ピアノを弾き、絵を描き、こうやって言葉を書き綴る。ただどこかへ向かってサヨナラを告げるためのものではなくなって、いつか自分から必ず去って行ってしまう新しい何かに向かって、始まる前にご挨拶をしているような気はする。さぁ、朝ご飯を食べるよ。もうすでにサヨナラだけれど、今日はよろしくね。今日っていうやつを、また始めるぞ。

では今日はこのへんで。