不幸の淵へ向かう人に対して横から何度もカニばさみをかけて倒すリレー

病気になることより、人工的に何かをすることが体を痛める気がする一日だった。検査なんてヤダなぁ。悪い結果が出るようだったら、きっと細かく検査の心情とか日記に書き出してしまうのだろうけれど、それは無いことになった。何事もなく、無事帰還~と友人にはメールを送った。近くに住んでいる家族に緊急連絡先を指定するために、結局言わないで済むはずだった検査予定を昨夜急遽伝えることになり、何だかな~と思う。ココロの準備もあったもんじゃない。知らせずにたまたま連絡が行くようなことが起きた場合、そちらがより後々面倒になりそうなので仕方なく伝えた。こういうとき、本当に誰も連絡する相手がいない場合はどうするのだろうか。あれを見ると悩む人もいるだろうなと思った。とりあえず私には家族がいたことで、緊急連絡先について病院に対してゴネたりせずに済んだ。それは良かった。自分だけが一族の最後の生き残りなんてことになったら、きっと大変なんだろうなぁ。

とにもかくにも、ひとまず検査で綺麗な体の内部を見ることが出来て、ほ~っとなる。普段見られないものだから、じっくり見てしまった。さらに、最近気にかかっていたことは今回の検査と先生との話とで大体解消してしまった。早く予定してさっさと済ましたから、今後の予定もいろいろ楽になりそうだ。やった!

それにしても、ここ数日の間の自分の死生観のようなものに驚く。あまりこの先のことを考えていないというか、心残りが少ないんだなと改めて思う。この先は心残りとか生にしがみついていたいような、そういう気持ちが増える年齢になるのかもしれないけれど、今現段階ではやりたいことはやれているみたいで、今の自分の重荷になっているのが年老いた自分の世話だということだった。この先、お金も体力も気力も今よりも減るだろう。幻滅したり、不安になったりはしないが、「先が短いのだな」と思った途端とても気楽になったのははっきり覚えている。少し、十分生きた気になっているのかもしれないな。

ところが、こんな感じで「長生きとかしなくてもまあいいか」とぶらぶら検査に向かったのに、私より年上の合唱仲間が今回の検査前後にたくさんの応援メールを送って来ていた。「ポジティヴな人からエネルギーを送るよ。だから大丈夫だ。」「うちの家族もこの間やっていた。数年付き合ったからリアルでその状況が今わかるぞ」「大変そうじゃないみたいだな」「ふらついたりするから気をつけて」とまあ、次々とメールが来た。検査にも生きることにも、やる気があるのは私ではなくいつも周りだ。

他の友人からはまだ始めてない時刻に「お疲れ。よく頑張った!」とも連絡が入った。頑張るのは先生だと思うぞ。しかも気が早いって。その後もずっとぐだぐだしていた。他の診察が長引いて、待ち時間が延びるので眠りそうになっていた。時間は過ぎ、今日検査があるからと止むを得ず伝えた人から健康パワーを感じるメールを頂いた。感謝の気持ちもある。でも、検査って応援するもんだっけなぁ。とはいえ、きっと生きるのも検査も、本人より周りの温度で生存の熱意が変わるのかもしれないなあ。メッセージをありがたく頂戴した。

応援、とは私の中ではお祭りのことである。私が相手側の立ち位置だったら、きっとワーワーやっていたことだろう。誰かが手術をするならきっとうるさく応援していただろうし、同じことをやっていたかもしれない。病気かもしれないから、という暗い要素に向けて、病気じゃないかもよ、気を落として病気になんかなるなという応援。暗闇に一人で落ち込みそうな瞬間を蹴散らす。落ち込む隙を与えない。結果として病はどこかへ遠のき、今に至っているのではないだろうか。今日の自分なんかはきっとそうだ。ずっと絶え間なく煽られて、気落ちする隙間を与えられず、知らないうちにあっという間に検査が終わったのだろう。すごいね、みんな。ありがとう。きっと、病気が見つかったら見つかったで、治る気になるまでか、はたまた治るまで煽られるんだろうな~。その気力がリレーして永遠と続くのか。面白いよな。そう思えるところに生きている自分は幸せ者だな。

では今日はこのへんで。